衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

徳の教え(67)道徳経下篇・徳経(30)

三寳(さんぽう)第六十七と言う副題がついています。

 

三つの宝です。

 

一つ目は慈愛の心。惻隠の心とも言われます。

 

二つ目は慎ましさ。謙譲の心。

 

三つ目は時間も空間も貪らず、先んじない心。

 

優れている才能をひけらかしたり、

 

劣っている能力を卑下したりするのではなく、

 

互いに埋め合う事がこの三宝を大切にする事となり。

 

あらゆる人を災いから守り、天から慈愛が降り注ぎます。

 

 

【直訳】

天下みな「わが道大なるも不肖(ふしょう)に似る」と謂う。それただ大なり、故に不肖に似る。もし肖なれば、久しいかな、その細なることや。われに三宝さんぼうあり、持してこれを保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰くあえて天下の先せんたらず。慈なり、故によく勇なり。倹なり、故によく広し。あえて天下の先たらず、故によく器長(きちょう)と成る。今慈を舎(すて)てまさに勇ならんとし、倹を舎てて、まさに広からんとし、後を舎すててまさに先んぜんとすれば、死なり。それ慈はもって戦えばすなわち勝ち、もって守ればすなわち固かたし。天まさにこれを救わんとすれば、慈をもってこれを衛(まも)ればなり。

 

【原文】(天下の先頭には立たない)
天下皆謂我道大似不肖。夫唯大、故似不肖。若肖、久矣、其細也夫。我有三寳、持而保之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。慈、故能勇。儉、故能廣。不敢爲天下先、故能成器長。今舍慈且勇、舍儉且廣、舍後且先、死矣。夫慈以戰則勝、以守則固。天將救之、以慈衛之。

徳の教え(66)道徳経下篇・徳経(29)

後己(こうき)第六十六 と言う副題がついています。

 

人の後に自身を置く事が、人を導く際には必要な事の一つと言う解釈をしています。

 

大河や海は川の流れが行き着く先、終着点。自由に遊ばせても最後にはここにたどり着くからこそ、川や谷を纏める王とされます。

 

人の場合も、我先に行くのが表面上は引っ張っているように見えますが、本来は下から支えたり、失敗の責任だけは取るが行動の制限はしないような振る舞いが上に立つもの、リーダーとしての言動に相応しく、

 

その言動を感じ、熟考した人は必ず大きな尊敬と信頼を持つものです。

 

こうすれば、人を制限すること無く、人と争う事もない。

 

【直訳】

江海のよく百谷(ひゃっこく)の王たるゆえんは、その善くこれに下るをもってなり。故によく百谷の王たり。ここをもって聖人は、民に上たらんと欲すれば、必ず言(げん)をもってこれに下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身をもってこれに後(おく)る。ここをもって聖人は、上に処(お)るも民は重しとせず、前に処るも民は害とせず。ここをもって天下推すことを楽しみて厭(いと)わず。その争わざるをもっての故に、天下よくこれと争うことなし。

 

【原文】江海所以能爲百谷王者、以其善下之。故能爲百谷王。是以聖人、欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭故、天下莫能與之爭。

 

徳の教え(65)道徳経下篇・徳経(28)

淳徳(じゅんとく)第六十五と言う副題がついています。

 

これを読むと鳳凰堂流解釈をすることすら憚られます。

 

しかし、鳳凰堂流は自我が極大となった結果、集団的無意識へ入る事が道の1つだと考える為、敢えて智の共有を試みています。

 

その為、感性で訳し、巷の偉い?先生方の正式な語彙解釈等は見ていません。

 

これを読んでも矮小な私の解釈なら知識ではなく感性を高める為、そして全て捨てる為の一助になればと思います。

 

意識(気)が物を生み、物が調和し、集団的無意識となり、循環することで大きな気が生まれる。

 

以下鳳凰堂流解釈


道を全うしていた古人は人を啓発するのではなく、無知なままにしておこうとした。

 

人の知識があまりに多くなると人が平穏に暮らしていくことがむずかしくなるからだ。

 

知識によって国を治めようとする人は、災いをもたらす人。

 

知識によらないで国を治める人は民に恵みをもたらす人。

 

このような二つの原則を心得ている人は古人が行った基準を知っている。

 

古人の基準を心得ることを玄徳(神秘的な能力)と呼んでいる。

 

玄徳が理解でき、広まり尽くすと物事は物理的な側面から精神的、エネルギー的な側面主体の本来の源泉に戻る。

 

そのときにこそ大いなる調和が出現する。

 

【直訳】

古の善く道をなす者は、もって民を明にするにあらず、まさにもってこれを愚にせんとす。民の治め難きは、その智多きをもってなり。故に智をもって国を治むるは、国の賊なり。智をもって国を治めざるは、国の福なり。この両者を知れば、また楷式(かいし)きたり。常に楷式を知る、これを玄徳と謂う。玄徳は深し、遠し、物と反す。すなわち大順(たいじゅん)に至る。

 

【原文】
古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。知此兩者、亦楷式。常知楷式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣、與物反矣。乃至於大順。

徳の教え(64)道徳経下篇・徳経(27)

守微(しゅび)第六十四と言う副題がついています。

 

今回の第六十四編(徳の経第二十七編)では

前回の道徳経第六十三編に続き、微(何もしない、小さなこと)を守る事について

 

簡単なもの、直ぐに結果がでるもの、土台(根)がなく弱いものの末路と

 

小さな兆し、わずかなものを慈しみ、育て、大切にする事で成長し、循環することで豊かになる将来との対比が見られます。

 

心も身体も、国も全てに共通すること

 

以下鳳凰堂流解釈

 

簡単なものは直ぐ手に入る

 

現れる直前に兆しがあれば予想しやすい

 

弱いものは破れやすい

 

わずかなものは散り散りになりやすい

 

これらは小さな芽が出た時に対処すれば、問題が起こる前に治める事ができる

 

焦らず、循環を見て、自然の流れを感じて行動する

 

両腕いっぱいで抱えきれない程太い木も

初めは小さな芽

 

高層マンションも元は土くれ

 

遥か遠くへ旅をしても、最初は今ある一歩から

 

人はついつい、安易で手早くできること

自動でできることを求めて四苦八苦するが、

 

思慮深い人は将来的には無駄になることを予測して、無駄なことはせず、今あるものをただ大切にするので、何かを壊すこともなければ、

誰かを攻撃する言動をとることもない

 

人は何事も拙速に、また目先の結果に囚われるから、最終的には破綻する

 

欲を減らし、本当に大事なものを見つめ、

 

高価だから欲しがると言うことが無く、

 

知識よりも知恵や感性を尊び、

 

人が知識を得たことで失った、人との触れ合いや協力を大切にしていた時に戻す。

 

これは「自然の法則」を邪魔するものではなく、助けることになるから

 

【直訳】

その安きは持し易く、そのいまだ兆さざるは謀り易く、その脆きは破り易く、その微なるは散じ易し。これを未有になし、これを未乱に治む。合抱(ごうほう)の木は、毫末(ごうまつ)より生ず。九層の台は、累土(るいど)より起こる。千里の行は、足下(そっか)より始まる。なす者はこれを敗り、執とる者はこれを失う。ここをもって聖人はなすことなし、故に敗るることなし。執とることなし、故に失うことなし。民の事ことに従うや、常にほとんど成るにおいてこれを敗る。終りを慎つつしむこと始めのごとくなれば、すなわち敗るる事なし。ここをもって聖人は不欲を欲し、得難きの貨を貴ばず。不学を学び、衆人の過ぐるところに復す。もって万物の自然を輔けて、あえてなさず。

 

【原文】
其安易持、其未兆易謀、其脆易破、其微易散。爲之於未有、治之於未亂。合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土。千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲、故無敗。無執、故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。是以聖人欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。

 

 

徳の教え(63)道徳経下篇・徳経(26)

恩始(おんし)第六十三と言う副題がついています。

 

恩の始まりと言う意味でしょうか。

 

真面目すぎる人は、先ずはこの文を熟慮されますよう。

 

小さな事を大問題として捉えたとしても、そこに焦りややらなければと言う気持ちがあると疲れます。その為に冒頭に、何もしないことをやりきると書かれています。

 

これが小さいこと。

 

また、爪や手について投稿していますが、

 

身体にとっては小さいこと、小さい兆しです。

 

このような事をコツコツと集めて、その人を分析、施術するのが東洋医学でもあります。

 

肩こりは合谷が効くと言うような、魅力的な言葉は物事の本質からは眼を背けています。

 

一日でも何もしないことをやりきる。

 

何もしなかったではなく、無事に乗り切ったと考え、生きている事自体、自分を褒めてあげる。

 

原因が分からず文句を言われたら、気にせずまた相手の事を思い、その恩に報いる。

 

世の中は必ず些細な事から始まっている。

 

その小さな事を蔑ろにせず、慈しみ、労り、対処すれば大きな事にならず、大きな事も成し遂げられる。

 

これを軽んじると、必ず何でも簡単に請け負ってしまい、結果的には信頼や信用は少なくなる。

 

その為、思慮深い人は目先の結果には拘らず、小さな事からコツコツと積み上げている。

 

これが結局は大きな事を成し遂げることに繋がる。

 

小さな事を軽視すれば、やがてたくさんの大きな問題に出会う。

 

このような考えから、全ての事は大きな問題と考えると、本当の大きな問題にはならない。

 

【直訳】

無為をなし、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳をもってす。難(かた)きをその易(やす)きに図かり、大をその細になす。天下の難事は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細より作(おこ)る。ここをもって聖人はついに大をなさず。故によくその大を成す。それ軽諾(けいだく)は必ず信寡(すく)なく、易きこと多ければ必ず難きこと多し。ここをもって聖人すらなおこれを難(かた)しとす。故についに難きことなし。

 

 

【原文】

爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大。故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之。故終無難。

徳の教え(62)道徳経下篇・徳経(25)

爲道(いどう)第六十二と言う副題がついています。

 

道を為す事について。

 

道は全ての奥妙であり、どんな人でも欲しがるもの。

 

よこしまな心でこれを得ると、巧言令色を呈して尊敬を獲得し、心とは裏腹ににこやかな顔をする事で人から賞賛される。

 

今の時代も権威と言う傘の下で、優しく見える人は多くがこの部類。

 

しかし、だからといって拒絶や批判するものではない。

 

最終的に人の心に遺るのは、貴重なものでも、権威でもなく、道だからだ。

 

道を貴いとする理由は、どんな人にも公平に開かれているからである。

 

【直訳】

道は万物の奥なり。善人の宝にして、不善人の保つところなり。美言はもって市うるべく、尊行はもって人に加うべし。人の不善なる、何の棄つるものかこれあらん。故に天子を立て、三公を置き、璧(へき)を拱(と)りてもって駟馬(しば)を先にするありといえども、坐してこの道を進むにしかず。いにしえのこの道を貴ぶゆえんは何ぞ。もって求むれば得、罪ありてもって免がるといわずや。故に天下の貴たり。

 

【原文】
道者萬物之奧。善人之寳、不善人之所保。美言可以市、尊行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。

徳の教え(61)道徳経下篇・徳経(24)

 

謙徳(けんとく)第六十一と言う副題がついています。

 

謙譲の美徳とでも言いましょうか。

 

ここも国を人の心身に読み替えます。

 

心が人の全てを動かす。

 

その人自身の葛藤、人との交流による感情の抑揚、全ては心の裁量による。

 

そこは人体の陰の地である。心は陽であるからこそ、いる場所は陰。

 

静かにたたずんでいるからこそ、いざという時に様々な事態に対処できます。

 

内臓の中では高い位置にあるからこそ、静かにしていれば他の臓も従います。

 

他の臓や骨格、筋肉は心の一部として働きたいだけであり、心も全てが交流し、実現する場所としてそれぞれの役割を果たすだけ。

 

このように考えると、やはり心は無駄な欲をそぎ落とし、本当に必要な欲だけを十全に発揮すれば叶わない事はないのである。

 

【直訳】

大国は下流なり。天下の交(こう)なり。天下の牝(ひん)なり。牝は常に静をもって牡(ぼ)に勝つ。静をもって下となればなり。故に大国もって小国に下れば、すなわち小国を取る。小国もって大国に下れば、すなわち大国に取らる。故にあるいは下りてもって取り、あるいは下りて取らる。大国は人を兼ね畜(やしな)わんと欲するに過ぎず、小国は入りて人に事(つか)えんと欲するに過ぎず。それ両者はおのおのその欲するところを得。大なる者はよろしく下となすべし。

 

 

【原文】
大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。故大國以下小國、則取小國。小國以下大國、則取大國。故或下以取、或下而取。大國不過欲兼畜人、小國不過欲入事人。夫兩者各得其所欲。大者宜爲下。