衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

徳の教え(66)道徳経下篇・徳経(29)

後己(こうき)第六十六 と言う副題がついています。

 

人の後に自身を置く事が、人を導く際には必要な事の一つと言う解釈をしています。

 

大河や海は川の流れが行き着く先、終着点。自由に遊ばせても最後にはここにたどり着くからこそ、川や谷を纏める王とされます。

 

人の場合も、我先に行くのが表面上は引っ張っているように見えますが、本来は下から支えたり、失敗の責任だけは取るが行動の制限はしないような振る舞いが上に立つもの、リーダーとしての言動に相応しく、

 

その言動を感じ、熟考した人は必ず大きな尊敬と信頼を持つものです。

 

こうすれば、人を制限すること無く、人と争う事もない。

 

【直訳】

江海のよく百谷(ひゃっこく)の王たるゆえんは、その善くこれに下るをもってなり。故によく百谷の王たり。ここをもって聖人は、民に上たらんと欲すれば、必ず言(げん)をもってこれに下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身をもってこれに後(おく)る。ここをもって聖人は、上に処(お)るも民は重しとせず、前に処るも民は害とせず。ここをもって天下推すことを楽しみて厭(いと)わず。その争わざるをもっての故に、天下よくこれと争うことなし。

 

【原文】江海所以能爲百谷王者、以其善下之。故能爲百谷王。是以聖人、欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭故、天下莫能與之爭。