衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

徳の教え(65)道徳経下篇・徳経(28)

淳徳(じゅんとく)第六十五と言う副題がついています。

 

これを読むと鳳凰堂流解釈をすることすら憚られます。

 

しかし、鳳凰堂流は自我が極大となった結果、集団的無意識へ入る事が道の1つだと考える為、敢えて智の共有を試みています。

 

その為、感性で訳し、巷の偉い?先生方の正式な語彙解釈等は見ていません。

 

これを読んでも矮小な私の解釈なら知識ではなく感性を高める為、そして全て捨てる為の一助になればと思います。

 

意識(気)が物を生み、物が調和し、集団的無意識となり、循環することで大きな気が生まれる。

 

以下鳳凰堂流解釈


道を全うしていた古人は人を啓発するのではなく、無知なままにしておこうとした。

 

人の知識があまりに多くなると人が平穏に暮らしていくことがむずかしくなるからだ。

 

知識によって国を治めようとする人は、災いをもたらす人。

 

知識によらないで国を治める人は民に恵みをもたらす人。

 

このような二つの原則を心得ている人は古人が行った基準を知っている。

 

古人の基準を心得ることを玄徳(神秘的な能力)と呼んでいる。

 

玄徳が理解でき、広まり尽くすと物事は物理的な側面から精神的、エネルギー的な側面主体の本来の源泉に戻る。

 

そのときにこそ大いなる調和が出現する。

 

【直訳】

古の善く道をなす者は、もって民を明にするにあらず、まさにもってこれを愚にせんとす。民の治め難きは、その智多きをもってなり。故に智をもって国を治むるは、国の賊なり。智をもって国を治めざるは、国の福なり。この両者を知れば、また楷式(かいし)きたり。常に楷式を知る、これを玄徳と謂う。玄徳は深し、遠し、物と反す。すなわち大順(たいじゅん)に至る。

 

【原文】
古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。知此兩者、亦楷式。常知楷式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣、與物反矣。乃至於大順。