衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

徳の教え(64)道徳経下篇・徳経(27)

守微(しゅび)第六十四と言う副題がついています。

 

今回の第六十四編(徳の経第二十七編)では

前回の道徳経第六十三編に続き、微(何もしない、小さなこと)を守る事について

 

簡単なもの、直ぐに結果がでるもの、土台(根)がなく弱いものの末路と

 

小さな兆し、わずかなものを慈しみ、育て、大切にする事で成長し、循環することで豊かになる将来との対比が見られます。

 

心も身体も、国も全てに共通すること

 

以下鳳凰堂流解釈

 

簡単なものは直ぐ手に入る

 

現れる直前に兆しがあれば予想しやすい

 

弱いものは破れやすい

 

わずかなものは散り散りになりやすい

 

これらは小さな芽が出た時に対処すれば、問題が起こる前に治める事ができる

 

焦らず、循環を見て、自然の流れを感じて行動する

 

両腕いっぱいで抱えきれない程太い木も

初めは小さな芽

 

高層マンションも元は土くれ

 

遥か遠くへ旅をしても、最初は今ある一歩から

 

人はついつい、安易で手早くできること

自動でできることを求めて四苦八苦するが、

 

思慮深い人は将来的には無駄になることを予測して、無駄なことはせず、今あるものをただ大切にするので、何かを壊すこともなければ、

誰かを攻撃する言動をとることもない

 

人は何事も拙速に、また目先の結果に囚われるから、最終的には破綻する

 

欲を減らし、本当に大事なものを見つめ、

 

高価だから欲しがると言うことが無く、

 

知識よりも知恵や感性を尊び、

 

人が知識を得たことで失った、人との触れ合いや協力を大切にしていた時に戻す。

 

これは「自然の法則」を邪魔するものではなく、助けることになるから

 

【直訳】

その安きは持し易く、そのいまだ兆さざるは謀り易く、その脆きは破り易く、その微なるは散じ易し。これを未有になし、これを未乱に治む。合抱(ごうほう)の木は、毫末(ごうまつ)より生ず。九層の台は、累土(るいど)より起こる。千里の行は、足下(そっか)より始まる。なす者はこれを敗り、執とる者はこれを失う。ここをもって聖人はなすことなし、故に敗るることなし。執とることなし、故に失うことなし。民の事ことに従うや、常にほとんど成るにおいてこれを敗る。終りを慎つつしむこと始めのごとくなれば、すなわち敗るる事なし。ここをもって聖人は不欲を欲し、得難きの貨を貴ばず。不学を学び、衆人の過ぐるところに復す。もって万物の自然を輔けて、あえてなさず。

 

【原文】
其安易持、其未兆易謀、其脆易破、其微易散。爲之於未有、治之於未亂。合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土。千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲、故無敗。無執、故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。是以聖人欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。