衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

徳の教え(74)道徳経下篇・徳経(37)

制惑(せいわく)第七十四と言う副題がついています。

 

惑いを制すると言う解釈で呼んでます。

 

武士道とは死ぬことと見つけたり

 

と言う言葉がありますが、決して死地へ赴く事を正当化しているのではなく、天の采配は人の測れないところがあるからこそ、

 

生きている今日に感謝し、

 

明日死んだとしても悔いのない生き方をする事を説いていると考えています。

 

以下鳳凰堂流解釈

死を恐れない人には死刑判決は効果がなく、そのような世の中では意味が無い。

 

それは世の中がいつも死に面しているからこそ起こること。

 

平和になれば、死を恐れ、死を恐れるからこそ、大きな調和を乱す個人に対しての死刑判決は大きな効果がある。

 

死刑自体が、天刑(天運による死)を人が真似たもの。

 

天の真似をしても本来の自然の流れではない。

 

木こりの真似をして怪我をしない人が少ないように、どのような世の中でも天の采配を感じ、従い、考えるような人の醸成が必要なのではないだろうか。

 

【直訳】

民、死を畏(おそ)れざれば、いかんぞ死をもってこれを懼(おそ)れしめん。もし民をして常に死を畏れしめて、而うして奇をなす者は、われ執(とら)えてこれを殺すを得るも、たれかあえてせん。常に司殺者(しさつしゃ)ありて殺す。それ司殺者に代わりて殺す、これを大匠(だいしょう)に代わりて斲(き)ると謂う。それ大匠に代わりて斲る者は、その手を傷つけざることあるは希(まれ)なり。

 

 

【原文】
民不畏死、柰何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是謂代大匠斲、夫代大匠斲者、希有不傷其手矣。

徳の教え(73)道徳経下篇・徳経(36)

任爲(にんい)第七十三 という副題がついています。

 

 

天網恢々疎にして漏らさずと言う言葉の元になります。

 

天の計らいは、今の自分にとって大変不都合であっても受け入れる必要がある場合があります。

 

その判断は、思考が醸成した至人や聖人であっても難しいもの。

 

本来自然のままに生きることが道に適う事でもありますが、岐路に立てばやはり自分で決断する必要があるのです。

 

そしてその決断がいつ実を結ぶかは知りようがありませんが、結んだときに初めて理解できるかも知れません。

 

以下鳳凰堂流解釈

 

義に反する人を切り捨てるか、敢えてそのままにするかは、利害が大きく生じるところ。

 

天運がどちらに巡るかは、様々な因果関係の流れによる為、直ぐには判断が難しいもの。

 

天運は誰にも邪魔する事ができないけれど、

 

その分あらゆるものの関係を繋ぎ、流れていてこの繋がりと影響から漏れる事はない。

 

【直訳】

あえてするに勇なればすなわち殺、あえてせざるに勇なればすなわち活。この両者はあるいは利、あるいは害。天の悪むところ、たれかその故を知らん。ここをもって聖人すら、尚これを難しとす。天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、召さずしておのずから来(まね)き、繟然(せんぜん)として善く謀る。天網恢恢、疏そにして失わず。

 

 

【原文】
勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者或利、或害。天之所惡、孰知其故。是以聖人猶難之。天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。天網恢恢、疏而不失。

徳の教え(72)道徳経下篇・徳経(35)

愛己(あいき)第七十二と言う副題がついています。

 

自分を愛する。

 

孫子兵法の有名な一節

 

かれを知りこれを知らば、百戦して殆うからず

知彼知此、百戦不殆

 

と同じ考えです。

 

何かを評価したり、変化させる為には、先ずは基準が必要で、基準が分からないまま動いてもそれはいたずらに動揺している事と余り変わりません。

 

以下鳳凰堂流解釈

 

天運、天の巡り、循環を軽視すれば、その循環による浮き沈みが分からないまま、様々な悪い事象に悩まされる事になります。

 

欲が果たせないとストレスになります。

 

いつもどこかへ行きたいと思っていると、

 

行けない事がストレスになります。

 

楽しんで仕事ができないと、今やっている仕事自身が嫌になります。

 

何事も楽しくやる事ができれば、他の人もそれに同調し、同じように楽しむ人ばかりになってきます。

 

このようなことから考えていくと、

 

思考を醸成した人、思慮深い人は、先ずただ自分の事を理解し、自分の心身を車のようにうまく運転できることに尽力し、それをひけらかしたりはしません。

 

自分を好きで仕方なくても、それが傲慢には繋がらず、自分を愛する事と同じように他人が好きになります。

 

それによって、ご縁がある人もまた、自分を好きになり、それと同じように他人が好きになります。

 

つまりは、先ずは自分を知り、そして自分を愛することから始める事が大切です。

 

【直訳】

民、威を畏(おそ)れざれば、すなわち大威(たいい)至らん。その居るところに狎(なる)ることなかれ、その生ずるところを厭(ふさ)ぐことなかれ。それただ厭がず、ここをもって厭がれず。ここをもって聖人は、自らを知りて自らを見(しめ)さず、自らを愛して自らを貴(たっ)とばず。故にかれを去りてこれを取る。

 

【原文】
民不畏威、則大威至矣。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。

徳の教え(71)道徳経下篇・徳経(34)

知病(ちへい)第七十一と言う副題がついています。

 

禅問答のようですが、我が意を得た篇です。

 

簡単に表現したいけど、しようとすると微妙に正確ではない気がしてまた熟慮します。

 

鳳凰堂流解釈

言葉で分かりやすく表現できる人は、まだまだ理解しているとは言えない。

 

表現した相手は思考や経験を奪われ、共に育つ機会を自ら台無しにしているからだ。

 

理解しきれていない事を分かるだけで上級レベル。

 

理解していないのに理解しているように振る舞ったり、勘違いしている人は心が病んでいる。

 

心が病んでいると自覚できる人は健全で、病であっても病気ではない。

 

病があっても病気にならなければ、人は人生を全うできる。

 

熟慮できる人は決して病まない。自身を客観視できていれば、障害や破損があっても自然のままに、死ぬものは死に生きるのは生きるだけで、気を病んでいるわけではないからである。

 

【直訳】

不知を知れば上、知を知らざれば病(へい)。それただ病を病とす、ここをもって病ならず。聖人は病ならず、その病を病とするをもってなり。ここをもって病ならず。

 

【原文】

知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病。是以不病。

 

徳の教え(70)道徳経下篇・徳経(33)

知難(ちなん)第七十 と言う副題がついています。

 

理解する事が難しいもの、と考えて訳しています。

 

徳にしても、道にしても、言葉にすると一言ですみますが、本質を理解するのは難しいものです。

 

人はキャッチャーな言葉に惹かれたり、

目の前の物に囚われる修正があります。

 

ネコが猫じゃらしに抗えないように。

 

但し、この道、徳を考え続け、実行し続け、無為に辿り着いた途端。一旦は無気力になります。

 

そして、あらゆるものと自分の意識が1つになります。

 

以下鳳凰堂流解釈

私は凄く分かりやすく、実行しやすい事を言っているが、世の中は理解しようとも、実行しようともしない。

 

言葉には意図、意識があり、何かを行う為には僅かな欲、顕在意識が必要である。

 

たったこれだけの事でさえ、人は理解しようともしないが、少しでも理解しようとする人はそれだけ貴重であり、大切であり、尊い

 

聖人はボロを着ていても心に錦を持つもの。

 

人は見える錦にばかり意識を取られ、心にある錦には中々気づかない。

 

【直訳】

わが言は甚はなはだ知り易やすく、甚だ行ない易し。天下よく知ることなく、よく行なうことなし。言に宗そうあり、事に君あり。それただ知ることなし、ここをもってわれを知らず。われを知る者は希まれなれば、われに則のっとる者は貴し。ここをもって聖人は、褐かつを被きて玉ぎょくを懐いだく。

 

【原文】
吾言甚易知、甚易行。天下莫能知、莫能行。言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知。知我者希、則我者貴。是以聖人、被褐而懷玉。

徳の教え(69)道徳経下篇・徳経(32)

玄用(げんよう)第六十九と言う副題がついています。

 

兵法には後の先と言う言葉があります。

 

意識はつけておきますが、軸をぶらさず待つ事。懸待一致(けんたいいっち)、懸待表裏。

 

ここでは更に引く事を伝えています。

 

懸待一致はまだ戦う意志がある為、自軍の兵は疲弊していきますが、引けば兵は休め、次の戦いに備える事ができます。

 

以下、鳳凰堂流解釈

 

兵法には「こちらが主とならず客となり、少し進むより大きく退いてみる」と言う言葉がある。

 

これを行うと、相手は空振りし、思った以上に疲労、浪費する。

 

敵の力量を軽く見ることが1番の害であり、軽んじることは三宝(慈愛、謙譲、拙速に事を進めない)を無視している事に繋がる。

 

特に互いに疲労している時は、引いた方が必ず勝つ。

 

【直訳】

用兵に言あり、「われあえて主とならずして客となり、あえて寸を進まずして尺を退く」と。これを無行を行き、無臂(むひ)を攘(ふる)い、無敵を扔つき、無兵を執ると謂う。禍は敵を軽んずるより大なるはなし。敵を軽んずればほとんどわが宝を喪(うしな)う。故に兵を抗(あ)げて相加うるときは、哀しむ者勝つ。

 

【原文】
用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、扔無敵、執無兵。禍莫大於輕敵、輕敵幾喪吾寳。故抗兵相加、哀者勝矣。

徳の教え(68)道徳経下篇・徳経(31)

配天(はいてん)第六十八と言う副題がついています。

 

天の采配と言う意味でしょうか。

 

天は自然の恵みとして、日光、雨、風を地にもたらします。

 

地はそれを受けて、それぞれ持つ能力を伸ばして循環し、その循環のエネルギーをまた天に還す事で天地が相交わっています。

 

つまり、能力を最大限に伸ばすのは自ら光を放つ為であり、他と競争したり、害する為ではありません。

 

能力を発揮できた人が次にすることはその能力を周りに使い、助け、循環させること。

 

以下鳳凰堂流意訳

良く道をわきまえた士は自分の技を使うことがない。

 

良く何かの為に力の侵攻を防ぐ人は妄りに怒らない。

 

良く相手よりも優れた結果を出す人は争う事をしない。

 

良く人と交流し、助けて貰える人は態度が謙虚。

 

これを不争の徳と呼んでおり、他力を用いるとも呼ばれ、

 

天から采配された力を最大限活用できていると考えられます。

 

【直訳】

善く士たる者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与あらそわず。善く人を用もちうる者はこれが下となる。これを不争の徳と謂い、これを人の力を用うと謂い、これを天の極に配すと謂う。

 

【原文】
善爲士者不武。善戰者不怒。善勝敵者不與。善用人者爲之下。是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天之極。