言葉を繋ぐ(13)-3
それ乾は、確然(かくぜん)として人に易(い)を示す。それ坤は、隤然(たいぜん)として人に簡(かん)を示す。爻とは、これに効(なら)う者なり。象とは、これに像(かたど)る者なり。
乾は太極を明確化するものであり、変化を示すものである。
坤は変化の法則性を体現する為に、簡単で誰にでもできることを示すものである。
爻はこの法則性による効果を示すものである。
象はこの法則性の大小、位の違い等のイメージを示すものである。
乾は人に理解しやすくするもので、
坤は人が使いやすくするもの。
爻はその時の効果を現し、
象はそれをイメージとして映し出すもの。
夫乾確然示人易矣。夫坤隤然示人簡矣。爻也者效此者也。象也者像此者也。
衆妙の門と言う題名
衆とはあらゆるもの、あらゆる人と言う意味。
妙とは絶妙、奥妙等と使われるように、人外の事象、神。
老子は道経の第一に、道(太極)を全ての法則性と定義しただけでは道というものの存在価値は無に等しい。それはただ、区別する為に名前をつけただけで、名前は使う人により、場所により時により変化するでしょう?それと同じ事です。
道を理解しても、体現できなければ意味はなく、体現できて自分なりの道を作ってこそ、道の大切さが分かり、道を幅広く、遠くまで延びていけるように(永遠に続けるように)できます。
その為に、ここに道とは何か?
奥妙へ続くドアまでの案内板を書いておきます。(以上、永松の私的見解による超意訳)
という事から題名をつけました。
言葉を繋ぐ(13)-2
慎み深さと未来志向
現在・過去・未来の良し悪しはこの八卦の動きをどう解釈するかにある。
剛柔とはこの解釈の元になる虚実の事を指している。
変化して廃れるか、変化が良い方向へ動くかは現在・過去・未来を通した方向性から分析できる。
吉凶悔吝者。生乎動者也。剛柔者。立本者也。變通者。趣時者也。
物事の良し悪しは、当事者が慎み深さを持ちながら未来志向・プラス志向する事が最良の手段となる。
そう考えると、天地の道(法則性)も、慎み深く未来志向・プラス志向でみるべきである。
良い方向へ行くかそうでないかは、慎重さによって決まる。天地の道は慎重に観察するもので、太陽と月の動きを慎重に明確にした結果あらわれるものである。
つまり、あらゆる気の動きは慎重に感性、行動を重ね合わせる事で一となる。
吉凶者。貞勝者也。天地之道。貞觀者也。日月之道。貞明者也。天下之動。貞夫一者也。
言葉を繋ぐ(13)-1
太極から九宮八卦にまで分ける。
陰陽太極は1を軸と枠組みに置く事で物事を陰陽と言う二つの相対的な物事に分類する。
四象五行は、上下を作る事で、左右の違いまで表現する。
八卦九宮はその隙間を埋める事で、順序という概念が生まれる。その順序の中に、全ての生き物の生長壯老死のイメージがある。
更にこれを重ねることで、その中での事象の変化が表現でき、虛実の動きの常(不易)と変(変易)が理解できるようになる。
これに意味づけをする事で、その中で動くものの過去・現在・未來を類推できるが、それは一つの太極の中での動きである。
集約すると、簡易になるが、八卦を太極として五行に落とし込み、気一元に落とし込まなければ絵に描いた餅と言っていると考えます。
原文
八卦成列。象在其中矣。因而重之、爻在其中矣。剛柔相推。變在其中矣。繋辭焉而命之。動在其中矣。
言葉を繋ぐ(12)
易には天から助けがあると書かれています。
天の助けは時間の流れと共に流れてきます。人の助けを得るには信じる事、誠実さを保つ事が大切です。
信じてから後、考えるのが順当な時間の流れです。
知恵がある人は、そうすることで天からの助けを受けているので、良い事は成功し、悪い結果にはなりません。
孔子は、書物には書き尽くせず、言葉では意を尽くせないと言っています。聖人の意図は深く、あらわれないのです。
聖人はイメージを立てる事で意を尽くし、卦を作ることで情報・状態を尽くしていると孔子は言っています。
繫辞(言葉を繋ぐ)は言葉でそれを表現しています。
この言葉が変わっても、それは見ている角度が違うだけなので、真が変わっていなければ意味は通じ、良い事が起こります。これらの事に集中する事で神が降りて来ます。
乾坤は易の象徴であり、乾坤によって理(ロジック)や象(イメージ)の組み立てができるようになります。易はその軸を作るもので、乾坤がなければ易もありません。
上記の理由から、道とは形而上(形のない感覚や現象など)のものであり、形而下(形となってあらわれている)のものは器と呼んでいます。
形が変化しても道を維持していれば変と呼び、この形から敷衍して考えられる事を通と呼び、これらを使ってあらゆることに応用できることを業と呼んでいます。
聖人は奥深い象(イメージ)の中から、そのイメージに合う形に形容して象と言っています。あらゆるものの動きを観察して共通するものを通としています。
その為、道に沿った行動を礼と呼んでいます。
言葉を繋いで良悪の判断をする事を爻(こう)と呼んでいます。
奥深い理論は卦にあり、それを言葉によって動かし、腑に落ちれば変化します。
その変化を推敲して行動に移せば万事に通じます。
神がこれを明らかにし、それを行うのはその人です。
黙っていてもこれらに則っていれば達成でき、黙っているのは誠実に信を実行しているからであり、そこには徳が流れているのです。
言葉を繋ぐ(11)
孔子は、易とは何か?と尋ねています。
易とは何かを成し遂げる為に必要なものは何か、本質とは何かを考えていく為のものです。
本質的な事を考える際の枠組の始めから終わりを決める事で、何をどのような順序で行って行くことが目的のスムーズな完遂となるかを示してくれています。
このことを粛々と行っている人の事を聖人と呼んでいます。
聖人はあらゆる事柄の情熱、志を理解し、目標達成に必要な道具を順序立てて使うことができ、様々なハードルや岐路で何をすれば良いのかを知っている人です。
占う事(判断する事)の利点は円(天・感性)にあり、神にあります。
卦の利点は四角(地・理論)にあり、意味を理解する事にあります。
六爻(今、この時・機)の意味は易に備わっています。
聖人はこれらの事を含めながら、心を磨き、密かに持っています。
あらゆる物事の良悪は、人に影響し、人からも影響されます。
神はそれを予め啓示して、持ったままにしています。
古来からの叡智は神が武力を持っていても、
武は文字通り戈を止めるだけの為のものとしているようなもので、常識のレベルを遥かに超えた知恵なのです。
このような事から天の道(宇宙の法則性)を明らかにし、人に何か起こった時や何が起こるかの予測として用いているのです。
これが人に使うことのできる神からの贈り物であり、聖人はここから戒めを集めています。
神が徳を示し照らしてくれているのです。
扉を閉める事を坤と呼び、扉を開ける事を乾と呼びます。扉の開閉が変、変化が絶え間ない事を通、見たイメージを象、形を器、制御する事を法、人が感じ、使うことのできる事を神と呼んでいます。
易には太極があり、太極が両儀を生み、両儀が四象を生み、四象が八卦を生み、八卦が良悪を決め、良悪が大きな業わ生みます。
その為、法則性とイメージは天地の範囲を越えず、変化して通じるものは四季の区別と流れから離れず、イメージは太陽と月から派生していったものとなり、崇高さは富貴となります。元々誰もが持っているものを使っているだけの事となります。
器を作って天下の利益とできる人は聖人以外にはいません。
深く隠れたところまで探り、遠い処は深く鈎を差し込んで取り出し、そうやって天地自然の良悪を判断できるのは筮竹だけです。
つまり、天が生んだ神の啓示に聖人は従っているだけで、天地の変化を効果的に使っているだけの事なのです。
天から降りてくるイメージを良悪の判断材料として図象としたのが聖人です。
河から河図が現れ、洛から書が現れ、聖人はそれに従っているだけです。
易には四象があり、これを言葉に繋いで意味によって細分化する事で良悪を決めているのです。
言葉を繋ぐ(9)-2
折角九宮が出てきたので、ちょっと図解で説明してみます。
元々の八卦九宮は平面図ですが、人体に応用する際には立方体として考えた方がイメージと理論を合致させやすい為、近年周易で量子力学を説明する方法が研究されている事もあり、これを研究している人の考えを拝借して記載します。
天一(乾)、天三(離)は天(上)にあって陽(上)の数なので、上に配置。
地二(兌)、地四(震)は地(下)にあって(下)の数なので、下に配置。
すると、以下の図のようになります。
立方体として八卦九宮を考えると、後残っているのは坤、巽、坎、艮となります。
乾、震、離、兊は定位として天地に配置し、
坤、巽、坎、艮は陰陽相交させるとすると、
上爻が陽である、巽・艮は天(上)に配置し、
初爻が陰である、坎・坤は地(下)に配置します。
巽は、天一に中央五を加えた6として、
艮は、天三に中央五を加えた8として、
上に配置します。
坤は地四に中央五を加えた9として、
坎は地二に中央五を加えた7として、
下に配置します。
すると、上下・前後・左右のある立方体で天地定位だけでなく、陰陽相交と言う動きも表現できています。