衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

言葉を繋ぐ(17)-4

【直訳】

易に曰く、石に困(くる)しみ、蒺蔾(しつり)に拠(よ)る。その宮に入りて、その妻を見ず、凶なり、と。

 

子曰く、困しむべき所にあらずして困しめば、名必ず辱(はずか)しめらる。拠るべき所にあらずして拠れば、身必ず危し。既に辱しめられ且つ危うければ、死期まさに至らんとす。妻それ見ることを得べけんや、と。

 

【原文】

易曰。困于石。據于藜。入于其宮。不見其妻。凶。子曰。非所困而困焉。名必辱。非所據而據焉。身必危。既辱且危。死期將至。妻其可得見邪。

 

【私的解釈】
 易には次のように書いています。前は石で苦しんで、後はいばらで占められて、前門の虎後門の狼のような状態から、やっと我が家に入ったのに妻に会えないのは凶である。

 

 孔子は次のように書いています。苦しまなくても良い所で苦しむと、必ず恥ずかしい思いをする。よりどころでないのに頼ってしまえば、身は必ず危うい状況になる。恥ずかしい思いをしながら危うい状況なれば、人として存在しにくい状態になっている。その時には既に誰にも言えない状況なのに、どうして妻に会うことができるであろうか。会えば事態は更に悪化する。

 

ここからはまだ深読みしきれていません。

易に書かれている事を孔子(孔丘)が解釈するという流れに変わりましたが、

 

表面的な解釈では、

 

  積極性や自尊心から傲慢さがあらわれてくると、苦しんだり怒ったりしなくても良い場面で感情が出て、周囲との関係も自分の内面も地獄で業火に焼かれたようになってしまう。

 

  消極性や受け身な気持ちから依存心が主体になり、頼らなくて良いところで他に任せてしまい、最終的には自虐的な感情に支配される。

 

  乾坤どちらに偏り過ぎても、人や環境と調和できなくなるのに、そんな時に最も親しい自分の半身とも言える人のところへ行けば、その偏った感情をぶつけてしまい、

 

  乾であれば、相手を罵ったり八つ当たりしたりする。

 

  坤であれば、卑屈になったり死にたくなる。

 

  結局は乾坤どちらにも揺れながら、バランスを取っていく事ではないだろうか。

 

と、言った解釈となっています。

 

  全体の流れと本節の意図は何度かこのように解釈していきながら、ピッタリと合う感覚をその都度見つけて行くしかないと考えています。