衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

老中医(2)

江蘇省から上海に来て、初めての難関を突破した翁泉海。

 

 裁判が終わった後、趙閔堂と呉雪初が二人で酒を酌み交わしながら、呉雪初が言った言葉が秀逸でした。

 

「秦仲山患病日久,大骨枯槁,大肉陷下,五脏元气大伤,营卫循序失常。

脉如游丝,似豆转脉中,且舌苔全无。此乃阴阳离绝,阳气欲脱,回光返照之先兆也。可那翁泉海奇怪了。他不用大剂量补气得人参,黄芪。也不用補阳的鹿茸,附子。他偏偏用补中益气汤。这样平淡无奇的小方,以求補离散之阳,挽敗绝之阴,清虚中之火,升下陷之气。不温不火,不轻不重,分寸掌握得十分精准。」

 

秦仲山の病の重さを邂逅する一節。「骨は枯れ、肉は落ちくぼみ、脈は細く脈の中に豆が転がるようにあり、舌苔は全く無い。こんな風に陰陽離決し、回光反照の前兆が現れていたにも関わらず、補中益気湯のような平凡かつ小方を使って陽気の離散を補いながら、陰気が絶えないように助け、虚中の火を冷まし、下陷している気を昇らせ、温めず火を消さず、軽重自在に扱っていたのはものすごく精密な腕があった事が理解できる。」 

 

と呉雪初が言っています。

 

 

何より

「无论你来自何处何地哪门哪派,这手高手低,还得在病上见真章」

 

出自が何でどこから来て、どの門派に属しようとも、そいつの腕次第。

病の前では真価が問われる。

 

上海一の西洋医として名の知られた趙閔堂と中国鍼灸の伝人とされる呉雪初の会話を一部抜粋してみました。

 

老中医(1)

CCTVで放映されたと聞いて、中華民国時代前後の鍼灸、中薬、気功等がたくさん出てくるのを期待して見てみました。

 

まぁ、期待は落胆の母ですね笑

約五十話ある内のプロローグですので、専門的な事を求めるのが間違ってました。

 

第一話ではドラマの始めらしく、様々な人間模様が描かれているだけで、

 

お、と思ったのは少女達が楽しそうに歌訣を吟じていた場面と牢屋の中で主人公が診察していたところくらいでした。

 

しかしながら、10話くらい観ていると、

やはり主人公がどのように陰徳を重ねているか、どんな権威よりも陰徳を重ねる事が何よりの宝であり、威となる事を教えてくれているように思います。(あくまでも個人の感想です)

 

まだ、全話無料公開はされてませんが、観る事ができる方は1度観てみてください。

 

 

言葉を繋ぐ(24)-5

【直訳】

まさに叛(そむ)かんとする者は、その辞慙(は)ず。心中疑う者は、その辞枝(わか)る。吉人の辞は寡(すくな)く、躁(そう)人の辞は多し。善を誣(し)うるの人は、その辞游(ゆう)し、その守を失う者は、その辞屈す。

 

 

【原文】

將叛者其辭慙。中心疑者其辭枝。吉人之辭寡。躁人之辭多。誣善之人其辭游。失其守者其辭屈。

 

【私的解釈】
 今にも背こうとしそうな者は易の辞を恥じる。心中を疑う者は易の辞は分れる。りっぱな人の辞は少なく、騒がしい人の辞は多い。善を詭る人は、その辞はゆらゆらと動き、その守りを失う者は、その辞は屈する。

 

 心の誠に関しての言葉で締められています。

 

 易に書かれている言葉に対して批判をすると言う事は、易の理自体が分かっておらず、自分がどこからどの大きさで見ているかも分かっていない人。

 

 自分の心に誠がない人は、易の言葉自体を理解できていない。

 

 本当に分かっている人は、伝える相手の思考や実践を邪魔しないように、流れ自体を無理やり変えないように、発する言葉自体は少ないものなので、あれこれ多くの言葉を労する人には誠の心は少なくなる(陰陽)。

 

 良い事をしていると誤認している、或いは良い事の裏に邪な考えを持っている人の言葉はブレが多く、誠の心が少なくなった時点で言葉が空虚に空回りする。

言葉を繋ぐ(24)-4

【直訳】

天地位を設け、聖人能を成す。人謀(はか)り鬼謀って、百姓も能(のう)に与(あず)かる。

 

八卦象をもって告げ、爻彖は情をもって言う。剛柔雑居して吉凶見るべし。

 

変動は利をもって言い、吉凶は情をもって遷る。

 

この故に愛悪(あいお)相い攻めて吉凶生ず。遠近相い取りて悔吝生ず。情偽(じょうぎ)相い感じて利害生ず。

 

およそ易の情は、近くして相い得ざれば、凶。あるいはこれを害す、悔いありて且つ吝なり。

 

【原文】

天地設位。聖人成能。人謀鬼謀。百姓與能。

 

八卦以象告。爻彖以情言。剛柔雜居。而吉凶可見矣。

 

變動以利言。吉凶以情遷。

 

是故愛惡相攻而吉凶生。遠近相取而悔吝生。情偽相感而利害生。

 

凡易之情。近而不相得。則凶。或害之。悔且吝。

 

【私的解釈】
 天地上下と言う位置を決める事で聖人は様々な言動や行動を易の理に則って発する。人が理解できない先を考え、天地万物の霊魂に働きかけ、庶民はその働きに加わる事ができるだけである。

 

八卦は象(イメージ)を使って人に告げ、爻辞や彖辞(卦辞)は誠の心をもって言葉で告げる事である。剛と柔が入り交じっているので吉凶が出る。

 

変動は利を得られるものを言葉にし、吉凶は情で巡って行く。

 

上記のような理由から、愛しさと悪みは互いに攻めぎあい吉凶が生じる。

 

遠くまで考えるのか近くを考えるのかをその時その時に互いに選びとるので悔吝が生じる。誠と偽りとが互いに感応する事で利害が生じる。

 

一般的に易の誠とは、近くで互いに得られなければ凶であり、あるいは相手を損ない、悔いがありかつ吝となる。

 

順番としては、空間の上下・前後・左右という六方を決める事で、自分がどこから見ているのか、アプローチしているのかを見定める。これによって言動・行動を行えば、

今うまく行かなくても将来的にはプラスにでき、今うまく行っても更に次の段階がある事が理解できる。

 

このようなロジックを端的にあらわしながら(乾)、理解して貰う為(坤)には八卦という平面空間の理解から始める方が良い。

 

爻辞や彖辞は今この瞬間の状況をイメージで現しているので、近い未来の良悪を表現しているだけであるが、これを相手に理解して貰わなければ結局何の変化も起きない。

 

無極 ←→ 太極 ←→ 両儀 ←→ 四象 ←→ 八卦 ←→ 六十四卦

 

上記の図式から、無極 ←→ 六十四卦 の図式への変化。

また、太極(1)←→ 三百八十四爻(384)が同じだという事を端的に言葉にしています。

 

 そして、これは図式がイメージできたら実際の出来事に当てはめていくことが大切で、実践できなければ絵に描いた餅でしかありません。

言葉を繋ぐ(24)-3

【直訳】

 この故に変化云為あり、吉事には祥あり。事に象(かたど)って器を知り、事を占って来(らい)を知る。

 

【原文】

是故變化云爲。吉事有祥。象事知器。占事知來。

 

 

【私的解釈】
 このようなわけで、変化が起こった後に言動や行動があり、吉事には兆しがある。事物を形にして器を知り、事物を占って未来を知る。

 

八卦は象をもって人に告げ、爻辞や彖辞(卦辞)は誠をもって言葉で告げる。剛と柔がまじり入りて吉凶が見られる。

 

 1つの変化には兆しがあり、この兆しから言動や行動に移り、次は誰かに影響して繋がっていきます。

 

 もし、今怪我をしたというような場合、慌てていたのか、ボーッとしていたのか、

心が行動に対する注意が及ばない何かに囚われていたのではないでしょうか?

 

 見えない心の加減が怪我という形になったり、病気という形になったりします。

 

 八卦にまで広げられると、それが言葉で具体的に現す事ができるようになり、

その言葉によって悪い方向へ行っていた流れも中和されたり、或いはより悪い方向へいったり、良い方向へ行っていたとしても行きすぎないように警告する意味があったりします。 

 

 

言葉を繋ぐ(21)-4

【直訳】

二と四とは、功を同じくして位を異(こと)にす。その善は同じからず。二は誉れ多く、四は懼(おそ)れ多し。近ければなり。柔の道たる、遠きに利ろしからざる者なれど、その要の咎なきは、その柔中を用(もっ)てり。三と五とは、功を同じくして位を異(こと)にす。三は凶多く、五は功多し。貴賤の等(とう)なり。その柔は危うく、その剛は勝(た)うるか。

 

【原文】

二與四。同功而異位。其善不同。二多譽。四多懼。近也。柔之爲道。不利遠者。其要无咎。其用柔中也。三與五。同功而異位。三多凶。五多功。貴賤之等也。其柔危。其剛勝邪。

 

 

【私的解釈】
 二爻と四爻とは、どちらも偶数(陰の数)としての働きは同じだが大成卦としてみると位置が異なっているので当然利点も同じではない。

 

 二爻は良い事が多く、四爻は良くない事が多い。なぜなら四爻は五爻という大成卦の中でも頂上にあり、上爻は変化する為安定した君主という位置のすぐ傍にあるからである。

 

 柔(陰)の道は君主から遠い場合は本来不利だが、その要として咎がないのは、二爻(柔)が内卦の中にいるからである。三爻と五爻も働きは同じだが位置が違う。

 

 三爻は凶が多く、五爻は手柄が多い。身分の高低の段階が違うからである。三爻と五爻は陽位なので、柔爻は危うく、剛爻は持ちこたえる事が多い。

 

 数字の違いで六爻の位置の意味を簡釋しています。

 

 二爻と四爻は偶数なので陰の爻であり、四隅に配置されやすい数字です。

四隅と言うと二と四に区別できないから二、四と言う2つの区別になっているだけです。ちなみに六爻は上爻と呼び、天を指すので偶数には入りません。

 

 偶数が安定しやすい位置は下であり、内である小成卦。その為、二爻の方が良いことが暗示されやすく、四爻は陽のところに陰があるので変化が大きいという事です。

 

 三爻と五爻も同じ理論で考える事ができます。

 

 善惡(良し悪し)で考えると、悪い事と表現していますが、変化が大きいのが陰陽相交している、偶数の位置に陰数の爻がある場合と奇数の位置に陽数の爻がある場合と言っているので、法則性を暗示しているだけと考える事が重要で、その変化をどう捉え、どうクリアするかが大切です。 

 

 総括すると、マイナスの事が内で起きても無事に過ごせる事が多く、外で起きるマイナスの事は自分が越えるべきハードルであって、辛く苦しくても越えた方が良い方向へ向かう事を示しています。

 

 プラスの事項に関しては、変化が大きい楽しい事に人は引かれやすいものの、

身体(地・下)の中であまり大きな変化があるのは望ましいことではなく、心の中(天・上)で良い変化があれば身体も良い方向へ行きやすいという事です。

 

 外から見るか、中から見るか、上から見るか、下から見るか同じものでも違うように見えます。結局は同じもの。

言葉を繋ぐ(24)-2

【直訳】

能(よ)くこれを心に説(よろこ)び、能くこれを慮(りょ)に研(みが)き、天下の吉凶を定め、天下の亹亹(びび)を成す者なり。

 

【原文】

能説諸心。能研諸侯之慮。定天下之吉凶。成天下之亹亹者。

 

【私的解釈】
 乾坤の徳によって、自分だけでなく周囲の人も本当の意味で喜ぶことができ、また細やかな計らいを磨くことができる。世の中の良し悪し吉凶を見定めるには、世の中の善悪、流行等に迷わされずに弛まぬ努力をする事である。

 

  人は思いもよらず、世間一般の常識に囚われているものです。

 

  何か形を作るとそれが拠り所になるから。

 

  そこから逸脱すると非常識と言われます。

 

  常識を基準とせずに、常に乾坤の兼ね合いを考えて、言動、行動すればいつの間にか非常識と言われていたものも受け入れられます。