徳の教え(81)道徳経下篇・徳経(44)
顯質(けんしつ)第八十一 と言う副題がついています。
老子道徳経、最後を飾る章です。
老子に徹底された争わず、与える精神、行動ですが、鳳凰堂はまだまだこの域には遠いです。
先ずは気持ちだけ、志だけでも同じくしています。
以下鳳凰堂流解釈
真に信じるべき言葉には飾りはなく、人の息づかいから表現されている
キャッチーな言葉や分かりやすい言葉は真を伝えていない。
なぜなら、人の思考を邪魔しており、自分の知識、考えを押し付けているから。
真を理解している人は無闇に宣伝しない
無闇に宣伝している人は真を理解していないのが明らかだから
真に熟慮できる人は自分の為の蓄積、蓄財を持たないが
人の為に全力を尽くす為、
気、意識、心の豊かさ、徳と目に見えないものはドンドン積み重なっていく。
天の道はプラスの受け渡しで循環していくもの
聖人の道は何をしても争う事なく循環していくもの。
【直訳】
信言(しんげん)は美ならず、美言(びげん)は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。聖人は積まず、既(ことごと)くもって人のためにしておのれいよいよ有し、既くもって人に与えておのれいよいよ多し。天の道は、利して害せず。聖人の道は、なして争わず。
【原文】
信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積、既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道、利而不害。聖人之道、爲而不爭。
徳の教え(80)道徳経下篇・徳経(43)
獨立(どくりつ)第八十 と言う副題がついています。
少人数の小さなグループを作る事が大義を作る為には重要です。
小さな政府と言う観点がありますが、理論上は理想かもしれません。
但し、小さいほどその構成員の自我が暴発しやすく、他の大きなグループから攻められると弱いと言うリスクもありますので、熟考、深慮できる人達である事が前提条件となります。
そうでなければ、終わりの始まりになりますのでこの点はよくよく注意する必要があります。
以下鳳凰堂流解釈
小さなグループを少人数で作り、できるだけ自分達で賄う。
遠くへ移動したり、便利なものをすぐに使うことがなく、皆で考えて解決するように努める。
いざという時の事を考えて、守る為の道具は持つが、攻防に専任する人は作らない。
自分達の輪を大切にし、過大な欲を持たなければ、日常の食べもの、自分達で仕立てた衣服、自分達で建てた家、全てに満足し、日々感謝できる。
近くのグループの声は聞こえても、自分の生きている枠組みで一生満足できるものである。
【直訳】
小国寡民(かみん)、什伯(じゅうはく)の器(き)あるも用いざらしむ。民をして死を重んじて遠く徙(うつ)らざらしむ。舟轝(しゅうよ)ありといえども、これに乗るところなく、甲兵(こうへい)ありといえども、これを陳(つ)らぬるところなし。人をしてまた縄を結びてこれを用い、その食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましむ。隣国相望み、雞犬(けいけん)の声相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往来せず。
【原文】
小國寡民、使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟轝、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使民復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗。鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死不相往來。
徳の教え(79)道徳経下篇・徳経(42)
任契(にんけい)第七十九と言う副題がついています。
借用証(人と契約を交わす)を書かせる事もその人の考え方しだい。
大きな怨み等のマイナスエネルギーはいくら消化したり、我慢しても必ず残ります。そんな状態で善行をしても偽善になりかねません。
このような事から、熟慮できる人は万が一お金を貸すとしてもあげる気持ちで貸します。返ってこなくてもその人を責めません。
借用書を書かせて、取り立てるくらいなら最初から貸さない。
身体に当てはめると、23時を過ぎれば金を借りるように、次の日のエネルギーを使い始めます。
次の日がしっかり休めないなら季節によって入眠時間も早めに取る。
どんなに善行や必要な事でもやり過ぎれば次の日から心身に負債がある状態で活動する事になります。
負債を負う位なら初めからやらない。
自然の流れは時に厳しく、時に優しく作用しますが、それは全て生きている人の行動が反映されています。
【直訳】
大怨(たいえん)を和すれば必ず余怨(よえん)あり。いずくんぞもって善となすべけんや。ここをもって聖人は左契(さけい)を執りて人に責めず。有徳は契を司どり、無徳は徹を司る。天道は親(しん)なし、常に善人に与みす。
【原文】
和大怨必有餘怨。安可以爲善。是以聖人執左契而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常與善人。
徳の教え(78)道徳経下篇・徳経(41)
任信(にんしん)第七十八 と言う副題がついています。
柔よく剛を制すという言葉には、剛よく柔を断つという対句があります。
世の中は剛が強いと認識しがちですが、実際には柔があってこその剛。
どちらも必要です。
上善水の如し。
以下鳳凰堂流解釈
世の中で一番柔らかく、弱いのは水。
水は弱く、柔らかいと考えられているが、剛健なのも水。
頭では理解できていても、普通の人は中々水のようには行動できない。
その為、熟慮、深慮できる人は、
国の災いを受ける人こそが、本当の意味で国を守っており、
世の中の罪業を引き受けている人こそが、本当の意味で世の中を守っていると考えている。
人の身体でも、症状(陽剛)に意識を囚われすぎず、原因(陰柔、変化しつづける心の偏在)をまっすぐ見つめる人こそ、心身一つとして自身の人生を全うしている(鳳凰堂流解釈)
つまり、世間の常識とは反対の事が真実であったり、真実の言葉は曲げられる事が多い為、熟慮、深慮が必要なのであり、水のように生きる事が上善なのである。
【直訳】
天下に水よりは柔弱(じゅうじゃく)なるはなし。而も堅強(けんきょう)を攻むることこれによく勝るものなし。そのもってこれを易(かう)るなければなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるものなきも、よく行なうものなし。故に聖人云う、「国の垢(はじ)を受くる、これを社稷(しゃしょく)の主と謂い、国の不祥を受くる、これを天下の王となす」と。正言は反のごとし。
【原文】
天下莫柔弱於水。而攻堅強者莫之能勝。其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。故聖人云、受國之垢、是謂社稷主、受國不祥、是謂天下王。正言若反。
徳の教え(77)道徳経下篇・徳経(40)
天道(てんどう)第七十七と言う副題がついています。
治療の中でも、余っているものを減らし、足りないものを補うのは鍼の真骨頂。
天の道に叶い、東洋医学では最高の施術に位している技とされる由縁です。(鳳凰堂勝手に解釈)
今の人は痛いとこ鍼やたくさん打つ人がほとんどになりましたが、、、
世の常ですね。
以下鳳凰堂流解釈
天の道は弓を引くのに似ている。狙いが高すぎれば低くし、低すぎれば高くする。
力が入りすぎれば緩め、弱すぎれば力を入れる。
余っているものは分配し、足りないところへ埋めていくのが、世界を1つとして捉えている事であり、
人の身体の中の気も、余っているところから充分に巡っていないところへ持っていけば良いだけである。
これができるのは、道を体得した人だけであり、熟考できる人に限られる。
そのような理由から、熟慮、深慮できる人は何かを成し遂げても自分のものとせず、何かを得ても一人で持つことはなく、
優れた事であっても当たり前のように、気づかれないようにそっと行動する。
【直訳】
天の道はそれなお弓を張るがごときか。高きものはこれを抑え、下(ひく)きものはこれを挙あぐ。余りあるものはこれを損(へ)らし、足らざるものはこれを補う。天の道は余りあるを損らして足らざるを補う。人の道はすなわち然らず、足らざるを損してもって余りあるに奉ず。たれかよく余りあるをもって天下に奉ぜん。ただ有道の者のみ。ここをもって聖人は、なして恃(たの)まず、功成りて処(お)らず、それ賢を見(し)めすことを欲っせず。
【原文】
天之道其猶張弓乎。髙者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者補之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。
徳の教え(76)道徳経下篇・徳経(39)
戒強(かいきょう)第七十六 と言う副題がついています。
強さを戒めること。
人間では肉体的な強さは男性の方が構造的に強いものですが、それを誇示し過ぎると人は去ります。
家族では家長が横暴だと家族がバラバラになります。
食物連鎖では、ヒエラルキーのトップが暴走すると下層が減少し、最終的には上層が苦しみ、減少する。
どんな人でも生き物でも皆同じ。
以下鳳凰堂流解釈
人は生きている時は柔らかいが、死ぬと硬くなる。
あらゆる生命も同じように生きていれば柔らかいが死ぬと硬くなる。
ここから考えると強さは死と直結しており、
弱さは生きている証。
軍隊が強すぎれば傲慢、支配が強くなり、人の生き方は滅亡、死に直面する。
木が強く、硬ければ、柔軟な木よりも折れやすい。
強く大きいからこそ下で支え、弱く柔らかいものが次への変化、可能性の模索をするのが自然の理である。
【直訳】
人の生くるや柔弱、その死するや堅強(けんきょう)。万物草木の生くるや柔脆(じゅうぜい)、その死するや枯槁(ここう)。故に堅強は死の徒となり、柔弱は生の徒なり。ここをもって兵強ければすなわち滅び、木強ければすなわち折らる。強大は下に処(お)り、柔弱は上に処る。
【原文】
人之生也柔弱、其死也堅強。萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則滅、木強則折。強大處下、柔弱處上。
徳の教え(75)道徳経下篇・徳経(38)
貪損(どんそん)第七十五と言う副題がついています。
損を持って得をすると言う言葉が廃れてきています。
損があれば益があり、この二つが陰陽として盛衰しています。
七損八益と言う理論がありましたが、現在は上に行くほど、益を貪り、支えてくれている人を酷使する事で商売をしている状況が多く見受けられます。(鳳凰堂視点)
以下鳳凰堂流解釈
人が生活に困窮するのは、国や商売人が欲を肥大化させている事に起因する状況が多い。
人を纏められないのは、纏める人の素行による。
自殺者が増えるのはそんな状況に僅かでも抵抗したい人が増えている証拠。
上に立つ人は、自分を守らず支えてくれている人を守ろうとする気概が必要で、
自分の利益や保身が第1に来るような人は立つべきではない。
その世界自体が既に廃退してきている証拠であり、陰陽転化の時期を指している。
【直訳】
民の飢(うう)るは、その上(かみ)の税を食(は)むことの多きをもってなり。ここをもって飢う。民の治め難きは、その上のなすことあるをもってなり。ここをもって治め難し。民の死を軽んずるは、その上の生を求むることの厚きをもってなり。ここをもって死を軽んず。それただ生をもってなすことなき者は、これ生を貴ぶより賢(まさ)る。
【原文】
民之飢、以其上食税之多。是以飢。民之難治、以其上之有爲。是以難治。民之輕死、以其上求生之厚。是以輕死。夫唯無以生爲者、是賢於貴生。