衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

言霊とラップ

 

いや〜、、、、、

ショック( ̄0 ̄)

 

増田正人先生の changeがいきなりの最終回💦

 

国文学者の家に生まれ、お嬢様学校の生徒だった栞がラップバトルで言葉の陰陽を交流する

 

過去も未来も関係なく、今に集約した一つの形を増田正人先生の熱い作画で展開していた漫画。

 

これからっ?!ってとこで終わるのがとても惜しく感じますが、桜の花のように、、、、、

 

散りぎわを見極めたのなら天晴れ。f:id:shuji0211:20191207104009j:image

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代数、代名(2)

本日拝読したブログに以下のようなものがありました。

 

kodomokyouiku.upper.jp

 

読んでいただけると分かると思いますが、

 

子どもへの声かけによる教育について書かれています。

 

子どもにとって、親や大人は神(神職者)のような存在

 

その兄が発する言葉や威は子どもの潜在意識や思考に直接影響します。

 

言い方が新しくなっているだけで、呪文と本質的には何ら変わりません。

 

そして、このように言葉かけをする為には、言葉をかける人が今持っている問題

 

例えば、夫婦喧嘩した直後だとか、何かしら用事があるのを先延ばしして声かけを

 

しているだとかの前提は、子どもにとっては何にも関係ないどころか、

 

それを引きずった感情を込めると泣き出したり、誤った情報として捉えます。

 

そして、この様な関係性やエネルギーの方向性を全てに適用させようとすると、

 

私の現在持っている言葉では呪文や祝辞、意念、思念(想念)、観念等という言葉で、抽象化せざるを得ません。

 

あらゆるものに適用させる為の抽象的な言葉を使っているのは、

 

受け取る人によって思考の広さ、深さ、今置かれている環境等が異なる為、

 

余り具体的に書くと伝える幅、受け手の思考の幅が共に狭くなるからです。

 

周易に関してもその懸念を払拭するために、代数や代名として無極、太極、両儀四象八卦などの名称を作っており、

 

それを老子は「名前はただ一時的に付けただけで、本質ではないんだよ。太極も一つの太極を道としてしまうと大きな落とし穴に落ちるよ」と伝えてくれているのだと考えています。

 

目的は、単に情報を伝えるのではなく、受け手の人間的、思考的成長を促す為。

 

子どもへの声かけでも、子どもにどういう影響を与えるかを考え尽くした結果、

 

声を掛ける側がどれだけ変われるかを苦心した様子が窺えます。これら全てが是ではなく、使う人がまたここから工夫すべきものです。

代数、代名(1)

前回、意念や呪文と言う現代では聞き慣れない言葉を使いました。

 

これを読むと怪しいと思った人が多いと思います。

 

そこで、もう少し広く深く読み解いてみましょう。

 

老子道徳経の體道第一には「道可道、非常道。名可名、非常名。」と書かれています。

 

これを読み換えると、太極が太極とするのは、

常に1つの太極だけを言っているのではない。名前が名前として、つけられていても、状況や状態によって変化しているので、一時的に言葉で表現する為の便宜上のものであり、本質を現しているわけではないと読み換えます。

 

例えば、田中と言う人を、ある人は田中と呼び、ある人は田中先生、田中さん、或いは下の名前で呼んだり、あだ名で呼んだりしますが、全て同一人物です。

 

呪文も、現代では呪う為の文言と言うような印象を受けがちですが、「呪」は元々、智慧のある者(神職者)が口から発する言葉であり、口偏が杖(礻)に変わると「祝」になり、軸を以て発する事ですから、原義はさほど変わらないと解釈をしています。

 

その為、前回呪いは祝いにもなり、祝いは呪いにもなると書いたのです。

 

言葉のエネルギーをどのように変換するか、

そしてどのように受け入れるかで、まるでイメージが変わります。

 

次に実際に応用している例を見てみましょう。

 

 

 

意念と思念と観念と呪文

意念とは、ある一つの物事に集中し、意識を凝縮させる自分の中の作業。

 

思念とは、意念の先、集中の先にある何も考えない自分の中の現象(外と繋がる)。

 

観念とは、元々その人が持っていたイメージ。

 

ここに書く際に、言葉の定義(太極)をかなり狭めないと、伝わらない可能性があるので、敢えて本来?の字義は無視して定義します。

 

    呪文とはこれらの心の中で動く神を1つに纏めて形にする事で、この作業を簡略化したり、土台とする為の方便。『名可名、非常名』

 

九字、真言、様々な流派の型、形。

全てがここに通じます。

 

雑念があれば雲散霧消します。

 

真を掴む(神を守る)1つの神器はここにあります。

 

呪文は喜びの言葉を入れれば祝辞となります。

心からそれを願えば叶いますが、それにはその心が自我を超越した結果の無我とならなければ、ただの絵に描いた餅。

 

ただの器。

 

使えれば祝は喜びとして巡り、

              呪いは害として巡ります。

気と炎色反応

怪しい話はあまり好きではありませんが、最近人を見て気の盛衰を感じる事が多く、どうやってこれを伝えるのかがいつも僕の課題になります。

 

端的に言うと炎色反応での説明が、科学的、

現代的です。

 

科学的には、熱を持ったものは電子エネルギーが不安定となり、元いた場所を離れて光エネルギーを放出し、また元いた場所へ帰ります。

 

この時の光エネルギーがどんなところから出たのかで色が異なります。

 

但し、東洋的には必ず、心ー内臓ー身体と言う関係性も考慮しますので、

 

身体から発せられる色が何色かで、内臓のどこからエネルギーを発しているのか、それはなぜなのかと考えます。

 

気と呼ばれるものもここと関わっている部分が多くあります(全てではありません)。

 

東洋的には気血を主題にしながら、より説明しやすい血からみた気血に話が集中していますが、私自身はこのように気、光、炎色反応の陰陽相交を感じる事の方が頭と感覚、感性がピタリとはまりやすいと思っています。

 

 

 

2020年 庚子年 おまけ

庚子年は熒惑星、太白星の影響を強く受けています。

 

つまり、火星と金星の重力の影響を強く受けています。

 

火星は、日本では敏達天皇の御代に、聖徳太子が優れた歌人を熒惑星と看破した事で知られていますが、僕は火(エネルギー)が陽明で充満して出しどころを探すときに音・歌になる事があるイメージを持っています。

 

土生金と言う相生の見えない兆しが火星。

 

金星は明けの明星、宵の明星として名高いですが、

 

仏教では仏陀が明けの明星が輝いた時に悟りを開いたと言われ、

 

キリスト教ではマタイの福音書に、東方から来た3人の博士がユダヤの王が生まれたと、東で見た星に導かれ、星が止まった場所にメシヤがいた。この時の星が宵の明星とも言われ、

 

ラテン語では

明けの明星は  Lucifer

宵の明星は      Venus

 

と言うのも庚子年は良いことも悪いことも大きく出る年である事を暗に語っているような気がします。

2020年 庚子年 (3)

三碧木星、四緑木星、九紫火星辺りに生まれた人はちょっと窮屈な1年になるかもしれませんし、その星に生まれても自制心を高める人生を送られてきた人には平凡な1年になるかもしれません。

 

情熱、目的を多く持ちながらも、どこか冷静。

これに予期せぬ事が起こると、様々な問題、災害、障害、病として降りかかります。

 

1年を2か月おきに考えてみると、

外向きには

1〜3月は 変化と停滞の攻防

2月〜4月はやりたいことをやる

5月〜7月は前月から続いてやりたいことをやり、達成する

7月〜0月は蓄積、停滞

9月〜11月は新たな目的、目標の設定

11月〜1月は新たな目的や目標に対する準備

と言った流れで、 

 

1年を2か月半毎に考えてみると、

内向きには

1月〜4月までは やりたいことを抑える

4月〜6月は   抑える気持ちも強いがやりたいことも強く出てくる

6月〜8月は   安定してやりたいことをやる

8月〜11月は  やりたいことを慎重に

11月〜1月は  安定してやっているが、不安が出てくる

 

この流れが交錯し、その上でその人の心、環境、ご縁が交わり合います。

 

そう考えると、肺、肝、脾辺りに着目しやすい時は今年の自然の流れと、それぞれの人が自然の流れに影響された側面を考慮した上で、何をするのか?(弁証、配穴)を決めた方が良いですね。