道の教え(1)
道を體現するという副題がついています。(體道第一)
道は太極が繋がったもの。
太極とは、その人、その団体、その社会等の1つの枠組み(空間)と考えると、
空間が時間によって変化するものが道と言えます。
東洋医学で喩えると、
気を太極とし、
それを端的に表現すると気血(両儀)
もう少し細かく観ると病の勢い、病の位置、病の性質、陰陽(四象)
それぞれの偏りを観るので合計八種の中から、気の偏在に集約します。
これは病の偏在を観ており、正気の偏在は観ていないことにも注意が必要です。
【私的解釈】
道が道である為には、同じ道というものはなく、
名前が名前であるのは、その時々で変化する。
天地(あらゆる物事)の始めには名前はなく、
天地(自然の上下)に名前を便宜上付けているだけである。
従って、自我(自分視点)を極力排除して全体を観ることで奥深い妙理が見え、
自我を用いる(全体を知りながら、ある一点からの角度、長さで観る)事でその微妙な変化を観ることができる。
この2つ(天地、自我と無我等)は同じものでありながら、名前が異なる。
このように同じものでも名前を異なるものとする事を玄と呼び、
玄(太極を両儀に分類したもの)の中の玄(両儀を四象に分類したもの)があらゆる人が奥妙に触れることができる端緒となる。
無極から太極を出し、太極を両儀に分け(玄)、両儀を四象に分けています(玄)。
太極から両儀も玄、両儀から四象も玄。これ自身が奥妙の門であり、常に双方向性であり、太極と少極(小極)を同時(時間差はあります)観る視点が必要 であり、
このロジックを先ずは理解・体感・イメージ・理論化しましょうという事で考えています。
【直訳】
道の道たるべくは常の道にあらず。名の名たるべくは常の名にあらず。
天地の始めに名無く、万物の母に名有り。
故に常に欲なくしてその妙を観、常に欲有りてその徼を観る。
この両者、出を同じくして名異なる。同じくするを玄と謂い、
玄のまた玄、衆妙の門となす。
【原文】
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名天地之父母。
故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。
此両者者同、出而異名。
同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。