衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

道の教え(4)

無源と言う副題がついています。

 

   道は突然出会う事であり観ることはできないが、用いる方法はいくらでもある。源は深淵のように深く全てを包みこんでいる宗のようなものだからである。

 

    鋭い乾に丸味を与え、紛糾した物事を解釈し、その先にある光明と調和することで、塵のような問題と考えて、光と塵は名は違うが同じものだと考える。

 

    それは渾々と流れる水のように常に存在するものだからである。それがどこから来たのか分からないが、人が知る遙か昔から、三皇五帝よりも前からあったようである。

 

道(太極)はどこまでも伸びて行く点においては、乾のようであるが、使っても使い切れない様は深淵のような坤も感じ、あらゆるものの根源と考えても良いだろう。

 

  その太極の乾の尖った先が丸くなり、その他を包み込み、その他と融合することで、坤の作用を発揮すれば、一回り大きな太極(一段上の太極)となり、本来の道の有様を呈する。これは螺旋を描く水の動きのようであり、外へ発すれば光の様となる。このような状況は表現が難しいので、先ずは誰も知らないような昔からあった乾坤という名前で代用することで、理解しやすいように書いています。

 

初めて読んだ人には全く分からない内容だと思います。

 

私はこれを読んで、次のように解釈しています。

 

人生の中で、ご縁や運と言うものは、予期できなかったり、気づかなかったりする事もあるけれど、ご縁や運には必ず自身の生き方が関わっています。

 

突発的に行動した事、急に思い立ったように思える事でも、足を止めてじっくりと考えると自分の本性との繋がりが見えてきます。

 

誰も知らないし、分からない事。

自分にしか分からない事を認識する事ができれば、全て自分の人生にとって必要なハードルであったり、階段であることが分かります。

 

自身の本性を知ることが、深淵の源から湧き上がる心を理解する事になり、自分の人生をより輝かせる端緒になります。

 

【原文】

   道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。

   湛兮似常存。吾不知誰之子。象帝之先。

 

【書き下し文】

   道は冲なれどもこれを用うれば或いは盈たず。淵として萬物の宗に似る。

   その鋭を挫き、その紛を解き、その光を和し、その塵に同じくす。湛として存するあるに似る。吾誰の子なるかを知らず。帝の先に象たり。