代数、代名(2)
本日拝読したブログに以下のようなものがありました。
読んでいただけると分かると思いますが、
子どもへの声かけによる教育について書かれています。
子どもにとって、親や大人は神(神職者)のような存在
その兄が発する言葉や威は子どもの潜在意識や思考に直接影響します。
言い方が新しくなっているだけで、呪文と本質的には何ら変わりません。
そして、このように言葉かけをする為には、言葉をかける人が今持っている問題
例えば、夫婦喧嘩した直後だとか、何かしら用事があるのを先延ばしして声かけを
しているだとかの前提は、子どもにとっては何にも関係ないどころか、
それを引きずった感情を込めると泣き出したり、誤った情報として捉えます。
そして、この様な関係性やエネルギーの方向性を全てに適用させようとすると、
私の現在持っている言葉では呪文や祝辞、意念、思念(想念)、観念等という言葉で、抽象化せざるを得ません。
あらゆるものに適用させる為の抽象的な言葉を使っているのは、
受け取る人によって思考の広さ、深さ、今置かれている環境等が異なる為、
余り具体的に書くと伝える幅、受け手の思考の幅が共に狭くなるからです。
周易に関してもその懸念を払拭するために、代数や代名として無極、太極、両儀、四象、八卦などの名称を作っており、
それを老子は「名前はただ一時的に付けただけで、本質ではないんだよ。太極も一つの太極を道としてしまうと大きな落とし穴に落ちるよ」と伝えてくれているのだと考えています。
目的は、単に情報を伝えるのではなく、受け手の人間的、思考的成長を促す為。
子どもへの声かけでも、子どもにどういう影響を与えるかを考え尽くした結果、
声を掛ける側がどれだけ変われるかを苦心した様子が窺えます。これら全てが是ではなく、使う人がまたここから工夫すべきものです。