衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

言葉を繋ぐ(17)-1

【直訳】

易に曰く、憧憧(しょうしょう)として往来すれば、朋(とも)爾(なんじ)の思いに従う、と。子曰く、天下何をか思い何をか慮(おもんぱか)らん。天下帰(き)を同じくして塗(みち)を殊にし、致を一にして慮(りょ)を百にす。天下何をか思い何をか慮らん。

 

【原文】

易曰。憧憧往來。朋從爾思。

 

子曰。天下何思何慮。天下同歸而殊塗。一致而百慮。天下何思何慮。

 

【私的解釈】
 易では、落ち着かずに行き来していると、朋があなたの気持ちに従うと言っている。

 

   孔子は、世の中のあらゆることについて何を思い何を思いわずらっても天下に帰することは同じであって、道が違っても、究極は1つであり、思いめぐらす方法や手順、題材が違っているだけなのであると言っている。

 

    世の中にあるものは全て同じ事が違う現象として現れているのだから、その法則性さえ自得すればよいのだと。

 

 これが俗に言う、1は2にも4にも8にも100にも1000にもなるが、結局は1だよという事を言葉で書いている部分です。

 

 黃帝内経・素問にもサラッと書いていますが、今まで書いてきた六十四卦をどのように観ていくか、どのように見えるかは観る人の認識力にかかっており、形だけ易の64種類、384種類知って使えてもそれは張仲景が「近頃の医者は親のマニュアルをなぞっているやつばかりや」と言っている状態と変わりません。

 

 病名にしても、弁証にしても細かく考えれば考える程、一生懸命に仕事をしている、専門的に観ているという誤認にはまりがちですが、それと最後に目の前にいる一人の人にまで思いを馳せられなければ結局は先人が遺した形を真似しているだけだと言いたいのでしょう。

 

 但し、その形も形のないものを観る為の土台ですのでとても大切なものです。

 

 要は本人の認識力次第で、感性と認識力を鍛えれば法則性は自得できるはず、

自得できればあらゆるものが繋がって見えますよと言っていると解釈しています。