環、巡、繋、螺旋
平面で簡易として図に現せば
和を以て尊しと為す
感情、神を自分の中に全て治め、
人と繋がってその和を調整し、
動きながらその動きが規則的に流れれば、
次の次元へ繋がる
簡易の功と罪
できるだけ簡単に、
全ての要素を含めて
繋がるように
循環させる
意味とイメージと理を持たせる
変化の法則
これをやると私(独自、偏見を持った)の型になる。
結局、型をどのように認識するか?
型を型で終わらせると、それまで。(極)
繋がらないと、それまで。(極)
代数、代名(2)
本日拝読したブログに以下のようなものがありました。
読んでいただけると分かると思いますが、
子どもへの声かけによる教育について書かれています。
子どもにとって、親や大人は神(神職者)のような存在
その兄が発する言葉や威は子どもの潜在意識や思考に直接影響します。
言い方が新しくなっているだけで、呪文と本質的には何ら変わりません。
そして、このように言葉かけをする為には、言葉をかける人が今持っている問題
例えば、夫婦喧嘩した直後だとか、何かしら用事があるのを先延ばしして声かけを
しているだとかの前提は、子どもにとっては何にも関係ないどころか、
それを引きずった感情を込めると泣き出したり、誤った情報として捉えます。
そして、この様な関係性やエネルギーの方向性を全てに適用させようとすると、
私の現在持っている言葉では呪文や祝辞、意念、思念(想念)、観念等という言葉で、抽象化せざるを得ません。
あらゆるものに適用させる為の抽象的な言葉を使っているのは、
受け取る人によって思考の広さ、深さ、今置かれている環境等が異なる為、
余り具体的に書くと伝える幅、受け手の思考の幅が共に狭くなるからです。
周易に関してもその懸念を払拭するために、代数や代名として無極、太極、両儀、四象、八卦などの名称を作っており、
それを老子は「名前はただ一時的に付けただけで、本質ではないんだよ。太極も一つの太極を道としてしまうと大きな落とし穴に落ちるよ」と伝えてくれているのだと考えています。
目的は、単に情報を伝えるのではなく、受け手の人間的、思考的成長を促す為。
子どもへの声かけでも、子どもにどういう影響を与えるかを考え尽くした結果、
声を掛ける側がどれだけ変われるかを苦心した様子が窺えます。これら全てが是ではなく、使う人がまたここから工夫すべきものです。
代数、代名(1)
前回、意念や呪文と言う現代では聞き慣れない言葉を使いました。
これを読むと怪しいと思った人が多いと思います。
そこで、もう少し広く深く読み解いてみましょう。
老子道徳経の體道第一には「道可道、非常道。名可名、非常名。」と書かれています。
これを読み換えると、太極が太極とするのは、
常に1つの太極だけを言っているのではない。名前が名前として、つけられていても、状況や状態によって変化しているので、一時的に言葉で表現する為の便宜上のものであり、本質を現しているわけではないと読み換えます。
例えば、田中と言う人を、ある人は田中と呼び、ある人は田中先生、田中さん、或いは下の名前で呼んだり、あだ名で呼んだりしますが、全て同一人物です。
呪文も、現代では呪う為の文言と言うような印象を受けがちですが、「呪」は元々、智慧のある者(神職者)が口から発する言葉であり、口偏が杖(礻)に変わると「祝」になり、軸を以て発する事ですから、原義はさほど変わらないと解釈をしています。
その為、前回呪いは祝いにもなり、祝いは呪いにもなると書いたのです。
言葉のエネルギーをどのように変換するか、
そしてどのように受け入れるかで、まるでイメージが変わります。
次に実際に応用している例を見てみましょう。
意念と思念と観念と呪文
意念とは、ある一つの物事に集中し、意識を凝縮させる自分の中の作業。
思念とは、意念の先、集中の先にある何も考えない自分の中の現象(外と繋がる)。
観念とは、元々その人が持っていたイメージ。
ここに書く際に、言葉の定義(太極)をかなり狭めないと、伝わらない可能性があるので、敢えて本来?の字義は無視して定義します。
呪文とはこれらの心の中で動く神を1つに纏めて形にする事で、この作業を簡略化したり、土台とする為の方便。『名可名、非常名』
九字、真言、様々な流派の型、形。
全てがここに通じます。
雑念があれば雲散霧消します。
真を掴む(神を守る)1つの神器はここにあります。
呪文は喜びの言葉を入れれば祝辞となります。
心からそれを願えば叶いますが、それにはその心が自我を超越した結果の無我とならなければ、ただの絵に描いた餅。
ただの器。
使えれば祝は喜びとして巡り、
呪いは害として巡ります。
気と炎色反応
怪しい話はあまり好きではありませんが、最近人を見て気の盛衰を感じる事が多く、どうやってこれを伝えるのかがいつも僕の課題になります。
端的に言うと炎色反応での説明が、科学的、
現代的です。
科学的には、熱を持ったものは電子エネルギーが不安定となり、元いた場所を離れて光エネルギーを放出し、また元いた場所へ帰ります。
この時の光エネルギーがどんなところから出たのかで色が異なります。
但し、東洋的には必ず、心ー内臓ー身体と言う関係性も考慮しますので、
身体から発せられる色が何色かで、内臓のどこからエネルギーを発しているのか、それはなぜなのかと考えます。
気と呼ばれるものもここと関わっている部分が多くあります(全てではありません)。
東洋的には気血を主題にしながら、より説明しやすい血からみた気血に話が集中していますが、私自身はこのように気、光、炎色反応の陰陽相交を感じる事の方が頭と感覚、感性がピタリとはまりやすいと思っています。