衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

言葉を繋ぐ(17)-10

【直訳】

子曰く、幾(き)を知るそれ神か。君子上交して諂(へつら)わず、下交してけがれず、それ幾を知れるか。幾は動の微(び)にして、吉(凶)のまず見(あら)わるるものなり。君子は幾を見て作(た)ち、日を終うるを俟(ま)たず。易に曰く、介(かた)きこと石のごとし、日を終えず、貞にして吉、と。介きこと石のごとし、なんぞ日を終うるを用いんや。断じて識(し)るべし。君子は微を知り彰(しょう)を知り、柔を知り剛を知る。万夫(ばんぶ)の望みなり。

 

【原文】

 子曰。知幾其神乎。君子上交不諂。下交不其知幾乎。幾者動之微。吉之先見者也。君子見幾而作。不俟終日。

 

 易曰。介于石。不終日。貞吉。

 

 介如石焉。寧用終日。斷可識矣。君子知微知彰。知柔知剛。萬夫之望。

 

【私的解釈】
 孔子は次のように言っています。兆しを知ることは神わざであろうか。君子は上と交わってもおもねりへつらうことなく、下と交わっても侮ることがない。その区別ができる君子こそ兆しを知っている人ではないだろうか。兆しとは動きがかすかであっても、吉凶がハッキリと分かる前に朧気にあらわれるものである。君子は、兆しを見て動作を起こし、日を終えることを待たない。

 

 易には次のように書かれています。かたいこと石のようである。日を終えないで、ただしくして吉、と。

 

 石のように堅いのに、どうして日を終るのを用いるであろうか。どうしても知るべきである。君子はかすかを知り、あきらかを知り、やわらかさを知り、つよさを知る。万人の望みである。

 

 易の雷地豫 f:id:shuji0211:20170511191818j:plain の二爻を引用しています。

 

 雷地豫は楽しんで様々な事に挑戦できる時です。その二爻は陰。隠れた事柄も察知して楽しめるはず。

 

 神というのはGodを指すのではなく、見えないけれども何らかの法則性を持っているもの、事をあらわします。

 

 つまり、自分の感性にふと訴えかけるような事柄があれば、楽しんで今すぐに行動し、経験しましょうと言った意味でしょうか。

 

 小さな変化を知れば、見えない変化も明確に分析でき、自分の心の柔軟さが分かり、

そこに強さが生まれる。誰しもがそうありたいと思いながらも中々難しい事ですね。

 

 

言葉を繋ぐ(17)-9

【直訳】

子曰く、徳薄くして位尊(たっと)く、知小にして謀(はかりごと)大に、力小にして任重ければ、及ばざること鮮(すくな)し。

 

易に曰く、鼎(かなえ)、足を折り、公の(そく)を覆(くつが)えす、その形渥(あく)たり、凶なり、と。その任に勝(た)えざるを言えるなり。

 

【原文】

子曰。德薄而位尊。知小而謀大。力小而任重。鮮不及矣。

 

易曰。鼎折足。覆公其形渥。凶。言不勝其任也。

 

【私的解釈】
 孔子は次のように言っています。徳が薄いのに地位が高い場合や智恵が小さいのに計画が大きい場合、力が小さいのに役目が重い場合、得てして力不足が目立つ、と。

 

 易では次のように書いています。鼎(かなえ)の足を折ってしまって、目上の人へのご馳走をひっくりかえし、自分自身がずぶ濡れになってしまい凶である、と。その役目に耐えられないと言えるのである、と。

 

 易では火風鼎 f:id:shuji0211:20170511194356j:plain という卦の四爻を引用しています。

 

 簡単に解釈すると、基礎力がなければ大切な場面で、大きな問題を起こしてしまい、自分に返ってくる、という事です。

 

 孔子はこれを具体性を以て、

 

 徳の薄さと地位の高さとのバランス。

 智恵の小ささと計画の大きさとのバランス。

 力量の小ささと役目の重さとのバランス。

 

 という三点に展開しています。

 

 火雷噬嗑  f:id:shuji0211:20170511192056j:plain から天地否 f:id:shuji0211:20170511191613j:plain 、火風鼎 f:id:shuji0211:20170511194356j:plain という流れで語られています。

 

 上卦(外卦)は火または天である事から、エネルギーが外に溢れている事は概ね同じですが、下卦(内卦)は天地否 f:id:shuji0211:20170511191613j:plain の 坤 f:id:shuji0211:20180522223048j:plain という部分(下卦・内卦)を軸にして上下反転しています。

 

 対外的には大きな役割、役目があったり、自分の外面としてはエネルギーに満ちているけれども、今からそのエネルギーを発揚していこうとしているのか、エネルギーがないのか、エネルギーが遊行し定まっていないのかの3種をこの(17)に書いているのだという視点を持って見ています。

言葉を繋ぐ(17)-8

【直訳】

子曰く、危うきものは、その位に安んずる者なり。亡ぶるものは、その存を保つ者なり。乱るるものは、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり。

 

易に曰く、それ亡びなんそれ亡びなんとて、苞桑に繋(つな)ぐ、と。

 

【原文】

子曰、危者。安其位者也。亡者。保其存者也。亂者。有其治者也。是故君子安而不忘危。存而不忘亡、治而不忘亂。是以身安而國家可保也。

 

易曰、其亡其亡、繋于苞桑。

 

【私的解釈】
 孔子は次のように書いている。変化の危うい人とは、その位に安心している者である。亡びる者は今あることを守ろうとするものである。乱れる者は、その治めることを保とうとするものである。このようなわけで、君子は安心しても危うさを忘れないで、あってもなくなることを忘れないで、治まっても乱れることを忘れない。これにより、身を安らかにして国家を保つべきである。

 

 易にいう、それ亡びるぞ、それ亡びるぞと、桑のしっかりした根に繋ぐ、と。

 

 孔子は具体的な状況にまで落とし込んで話してくれています。地位や自尊心が安泰な状況にある人ほど、それらを守ろうとして危うい。乱れているからこそ治めようとする。必ず反対の状況を心の隅においておけば真の安定、安泰となり、これを心に秘めながらバランスを取っていくべきであると言っているのでしょう。

 

 易は、(17)からは三百八十六爻についてまで掘り下げています。

今回の「其亡其亡、繋于苞桑。」は天地否 f:id:shuji0211:20170511191613j:plain の五爻にある「休否。大人吉。基亡基亡。繋于苞桑。」から引用されています。

 

 つまり、天地否 f:id:shuji0211:20170511191613j:plain は地天泰 f:id:shuji0211:20170511191543j:plain という安定からは上下逆さまになったような状態。

 

 五爻はその不安定な状態が極まる少し手前です。陽爻となっている五爻を陰爻に変えると火地晋 f:id:shuji0211:20170511193317j:plain となります。本卦の向かう6つの方向の内の1つです。勢いよく出て行ける卦であり、その五爻は悔いのないように推し進めて良い時です。その為、ここからは安定や調和という文字が見えてきた状態ではありますが、易は変化の規則をあらわしている書である事を考えると、そんな時こそどのように調和していくのかこれからをしっかりと見つめて考えておきましょうと言ったところでしょうか。

 

 災害を受けて復興し、順調に行き始めた時に大切な言葉になるでしょう。

 

 自分に照らし合わせてみると、怪我をして治り始めた時、大病を患って健康に向かい始めた時です。

 

 更に細かく考えてみると、身体は良くなってきているが根本的な悩みは解決していない状態。

 

 なぜ天地否の五爻を示したのか。

 

 大きな目線では上記のように考えていますが、火雷噬嗑の時のように様々な視点で考えて見る必要がありそうです。

言葉を繋ぐ(17)-7

【直訳】

善積(ぜんつ)まざれば、もって名を成すに足らず。悪(あく)積まざればもって身を滅ぼすに足らず。小人は小善をもって益なしと為して為さざるなり。小悪をもって傷(そこな)うなしと為して去らざるなり。故に悪積みて掩(おお)うべからず、罪大にして解くべからず。易に曰く、校(かせ)を何(にな)いて耳を滅(やぶ)る、凶なり、と。

 

【原文】

善不積。不足以成名。惡不積。不足以滅身。小人以小善爲无益而弗爲也。以小惡爲无傷而弗去也。故惡積而不可掩。罪大而不可解。易曰。何校滅耳。凶。

 

 

【私的解釈】
 善を積まなければ、名をなすには足りない。悪を積まなければ、身を滅ぼすには足りない。小人は自分に益がなければ小さな善も行なわず、自分が傷つかないからと小さな悪をやめない。だから悪を積んでいるのに隠すこともせず、罪が大きいのにやめないのである。易にいう、首枷を荷って耳を使えなくなるので凶である、と。

 

 ここに書かれている易に言うとは火雷噬嗑の上爻を指しています。

2つの節で火雷噬嗑の初爻と上爻を示しています。

 

 エネルギーが溢れている時に更に何かを進めようとすれば、他の関係ない事はしっかり切り離しておく事から始め、そこに真がなければ行きすぎてしまう可能性を示唆しています。

 

 集約すると乾為天の流れにも似ています。

 

 例えば自分はどんなに良い事だと思っていても、それを伝える人や導こうという(これは驕りも既にあります)人がその方向を向いていない、或いは強制性をもってやらせようとすれば、最終的には仲違いするか、お互い関わらなくなってしまいます。

 

 つまり、どんなに良いことであって、自分の主張が正しくても、押しつけすぎたり、

やりすぎると結局は誰もついてこなくなると。

 

 身体であっても同様ですね。

 

 心がどんなにやりたくても、身体がついていかなければ結局身体を壊してしまいます。これは怪我をした原因がどこにあるかにも関わってきます。

 

 火雷噬嗑 f:id:shuji0211:20170511192056j:plain の大成卦は、エネルギーがある中で更に瞬間的なエネルギーが発揚する姿。

 

 初爻(第一段階)は、動きにくく面倒な事はあるが、大きな問題にはならない。

 六二(第二段階)は、小さな傷はできるが真を貫くには問題がない。

 六三(第三段階)は、真を捉え間違えている可能性があるのでしっかりと考える時。

 九四(第四段階)は、真は捉えているが大きなハードルに苦しむ時。

 六五(第五段階)は、かなりのリスクはあり、痛みを伴うが真を掴める時。

 上九(第六段階)は、どこかで真を捉え間違えて大きなリスクを負う。

 

 (14)よりも原文に従って、自分流に意訳するとこうなります。

言葉を繋ぐ(17)-6

【直訳】

子曰く、小人(しょうじん)は不仁(ふじん)を恥(は)じず、不義を畏(おそ)れず、利を見ざれば勧(すす)まず、威(おど)さざれば懲(こ)りず。小しく懲らして大いに誡(いまし)むるは、これ小人の福(さいわい)なり。

 

易に曰く、校(かせ)を履(は)いて趾(あし)を滅(やぶ)る、咎なし、と。これの謂いなり。

 

【原文】

子曰。小人不恥不仁。不畏不義。不見利不勸。不威不懲。小懲而大誡、此小人之福也。易曰。履校滅趾。无咎。此之謂也。

 

【私的解釈】
 孔子は次のように言っています。

 

小人は不仁を恥とせず、不義を恐れず、利益がなければ進まず、脅さなければ懲りない。

 

少し懲らしめ大いに誡めることは、これが小人にとって幸いとなる。

 

易には次のように書いています。足枷(かせ)を履いて趾を使えなくなるが咎はない、と。こう言う様な状況のことをいうのである、と。

 

易の引用から孔子の解釈と言う流れでしたが、今回は孔子の言葉から易を引用しています。綜卦ですね。

 

そして易に書かれている「履校滅趾。无咎。」と言う字句は火雷噬嗑の初爻をあらわしています。

 

火雷噬嗑は(14)ー4に書きました。

 

エネルギーはあるので、益々良いことを進めていくというのが、大成卦の私の解釈となります。

 

 この大きな枠組みの中でも初爻の更にそれを進めていくという項目に当たります。

乾坤を太極とすると、乾中の乾、乾の五爻になる為かなり注意が必要です。

 

 自分が誰かを引っ張っていくエネルギーがあり、それが順当に進んでいるのであれば

その枠組から外れようとしている人、物事に対してはしっかりと制限をしたり、枠組を守るように諭したりする必要がある時です。

 

 社会や身体と言う小さな太極を守る事で、自分の心や他者の心を守り、しいては自然環境と言う大きな太極の変化に影響します。

 

そして、大きな太極が規則的に動けば、社会や身体もまた安定して変化します。

 

これを妄りに乱す人(身体では邪気や歪み等)には乾の力で、導いたり、叱責する事(身体では泻法)も時には大切です。

 

小さな子供には、特に文化や社会におけるしきたりや作法を教えるときは時に厳しさも必要ですし、身体では痛みが治まらない場合には泻法(一概には言えませんが)が必要になります。

 

そして孔子は五行(五常)の中の仁と義の大切さを唱えています。

 

 五行の始まりであり陽の部分だからだと考えます。

 

 

言葉を繋ぐ(17)-5

【直訳】

易に曰く、公もって隼(はやぶさ)を墉(こうよう)の上に射る、これを獲て利ろしからざるなし、と。子曰く、隼とは禽(えもの)なり。弓矢とは器なり。これを射るは人なり。君子は器を身に蔵(かく)し、時を待ちて動く。何の不利かこれあらん。動きて括(むす)ぼれず、ここをもって出でて獲ることあり。器を成して動く者を語(い)うなり。

 

【原文】

易曰。公用射隼于高之上。獲之无不利。子曰。隼者禽也。弓矢者器也。射之者人也。君子藏器於身。待時而動。何不利之有。動而不括。是以出而有獲。語成器而動者也。

 

【私的解釈】
 易は次のように伝えています。王公や君子が高い壁にいる隼を射て獲得えても問題はない、と。

 

 孔子はそれを次のように解釈しています。隼は獲物であり、弓矢は器(道具)であり、これを射るのは人である。君子は身体に器(才能を)隠して時を待って動くのである。何の不利があるだろうか。動いても縛られてないからこそ出かけて獲ることができる。器(才能)を使って動く者のことを語っているのである。

 

 易の伝えた事を孔子が解釈して、獲物(地の恵み)を弓矢(天人地相交した結果できた天の恵み)を人の努力で獲得するのは、天地の理に叶っていると言っています。

 

これは雷水解  f:id:shuji0211:20170511193620j:plain の上六と同じ事が書かれています。

 

つまり、解消、解決を暗示しています。

 

 易経孔子の言葉から考えると、天地の理に叶う(天人地の不交が解消する)為には、身体と智恵という才能が必要ですが、更にそれを発揮すべきタイミングがあり、この3つが合致すればその時の天地の相交は叶えられているという事だと考えています。

 

 今持てるものを充分に発揮するタイミングを測る。

 

 場所の準備ができているか。(地)

 

 自分の身体と心の準備ができているか。(人)

 

 今そのタイミングなのか。(天)

 

 全てが揃っていれば、あらゆる事がうまく行くと言っているのではないかと考えています。

 

 

 

言葉を繋ぐ(17)-4

【直訳】

易に曰く、石に困(くる)しみ、蒺蔾(しつり)に拠(よ)る。その宮に入りて、その妻を見ず、凶なり、と。

 

子曰く、困しむべき所にあらずして困しめば、名必ず辱(はずか)しめらる。拠るべき所にあらずして拠れば、身必ず危し。既に辱しめられ且つ危うければ、死期まさに至らんとす。妻それ見ることを得べけんや、と。

 

【原文】

易曰。困于石。據于藜。入于其宮。不見其妻。凶。子曰。非所困而困焉。名必辱。非所據而據焉。身必危。既辱且危。死期將至。妻其可得見邪。

 

【私的解釈】
 易には次のように書いています。前は石で苦しんで、後はいばらで占められて、前門の虎後門の狼のような状態から、やっと我が家に入ったのに妻に会えないのは凶である。

 

 孔子は次のように書いています。苦しまなくても良い所で苦しむと、必ず恥ずかしい思いをする。よりどころでないのに頼ってしまえば、身は必ず危うい状況になる。恥ずかしい思いをしながら危うい状況なれば、人として存在しにくい状態になっている。その時には既に誰にも言えない状況なのに、どうして妻に会うことができるであろうか。会えば事態は更に悪化する。

 

ここからはまだ深読みしきれていません。

易に書かれている事を孔子(孔丘)が解釈するという流れに変わりましたが、

 

表面的な解釈では、

 

  積極性や自尊心から傲慢さがあらわれてくると、苦しんだり怒ったりしなくても良い場面で感情が出て、周囲との関係も自分の内面も地獄で業火に焼かれたようになってしまう。

 

  消極性や受け身な気持ちから依存心が主体になり、頼らなくて良いところで他に任せてしまい、最終的には自虐的な感情に支配される。

 

  乾坤どちらに偏り過ぎても、人や環境と調和できなくなるのに、そんな時に最も親しい自分の半身とも言える人のところへ行けば、その偏った感情をぶつけてしまい、

 

  乾であれば、相手を罵ったり八つ当たりしたりする。

 

  坤であれば、卑屈になったり死にたくなる。

 

  結局は乾坤どちらにも揺れながら、バランスを取っていく事ではないだろうか。

 

と、言った解釈となっています。

 

  全体の流れと本節の意図は何度かこのように解釈していきながら、ピッタリと合う感覚をその都度見つけて行くしかないと考えています。