衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

言葉を繋ぐ(18)-1

【直訳】

 子曰く、乾坤それ易の門か。乾は陽物(ようぶつ)なり。坤は陰物なり。陰陽徳を合わせて剛柔体(たい)あり、もって天地の撰(こと)を体し、もって神明の徳に通ず。その名を称すること雑(ざつ)なれども越えず。於(ああ)その類を稽(かんが)うるに、それ衰世(すいせい)の意(い)か。

 

【原文】

 子曰。乾坤其易之門邪。乾陽物也。坤陰物也。陰陽合德剛柔有體。以體天地之撰。以通神明之德。其稱名也雜而不越。於稽其類。其衰世之意邪。

 

【私的解釈】
 孔子は次のように言っています。乾と坤が易の入り口である。

 

 乾は陽のものであり、坤は陰のものである。陰と陽が徳を合わせる事で、剛と柔が合わさった形となり、それが天地が選んで集めそろえた事物に実体が備えられ、これによって神のような明らかな徳に通じていく。その名称は、様々に言われているが天地の作ったものを越えることはない。その区分けを考えていくというのは、既にそれを1つの太極として纏めようとしている、時代が収束していっている証拠ではないだろうか。

 

 物事を区別 するという事は、その時点でカテゴライズしているので、一定程度の枠組みを意識的か、無意識かに関わらず決めてしまっています。

 

 1つの太極としては理路整然と纏まりがつきますが、纏まる反面、その他の観点は無視されてしまいます。

 

 混沌を整理するための太極のはずが、太極に拘り過ぎると全てが見えず、重箱の隅をつついて喜ぶ事になる。これを嘆いて、本質は乾坤という見えない陰陽にあり、見えない陰陽の良い所が合わさって見える陰陽として剛柔という名前をつけ性物体を性質毎に整理している。名称は様々でもこの陰陽、剛柔から離れる事はなく、それを考え始めるという事自体が既に太極に囚われている事だと考えています。(また道徳経・養身第一を想起させ、荘子応帝王篇を思い起こさせます。)