衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

言葉を繋ぐ(21)-4

【直訳】

二と四とは、功を同じくして位を異(こと)にす。その善は同じからず。二は誉れ多く、四は懼(おそ)れ多し。近ければなり。柔の道たる、遠きに利ろしからざる者なれど、その要の咎なきは、その柔中を用(もっ)てり。三と五とは、功を同じくして位を異(こと)にす。三は凶多く、五は功多し。貴賤の等(とう)なり。その柔は危うく、その剛は勝(た)うるか。

 

【原文】

二與四。同功而異位。其善不同。二多譽。四多懼。近也。柔之爲道。不利遠者。其要无咎。其用柔中也。三與五。同功而異位。三多凶。五多功。貴賤之等也。其柔危。其剛勝邪。

 

 

【私的解釈】
 二爻と四爻とは、どちらも偶数(陰の数)としての働きは同じだが大成卦としてみると位置が異なっているので当然利点も同じではない。

 

 二爻は良い事が多く、四爻は良くない事が多い。なぜなら四爻は五爻という大成卦の中でも頂上にあり、上爻は変化する為安定した君主という位置のすぐ傍にあるからである。

 

 柔(陰)の道は君主から遠い場合は本来不利だが、その要として咎がないのは、二爻(柔)が内卦の中にいるからである。三爻と五爻も働きは同じだが位置が違う。

 

 三爻は凶が多く、五爻は手柄が多い。身分の高低の段階が違うからである。三爻と五爻は陽位なので、柔爻は危うく、剛爻は持ちこたえる事が多い。

 

 数字の違いで六爻の位置の意味を簡釋しています。

 

 二爻と四爻は偶数なので陰の爻であり、四隅に配置されやすい数字です。

四隅と言うと二と四に区別できないから二、四と言う2つの区別になっているだけです。ちなみに六爻は上爻と呼び、天を指すので偶数には入りません。

 

 偶数が安定しやすい位置は下であり、内である小成卦。その為、二爻の方が良いことが暗示されやすく、四爻は陽のところに陰があるので変化が大きいという事です。

 

 三爻と五爻も同じ理論で考える事ができます。

 

 善惡(良し悪し)で考えると、悪い事と表現していますが、変化が大きいのが陰陽相交している、偶数の位置に陰数の爻がある場合と奇数の位置に陽数の爻がある場合と言っているので、法則性を暗示しているだけと考える事が重要で、その変化をどう捉え、どうクリアするかが大切です。 

 

 総括すると、マイナスの事が内で起きても無事に過ごせる事が多く、外で起きるマイナスの事は自分が越えるべきハードルであって、辛く苦しくても越えた方が良い方向へ向かう事を示しています。

 

 プラスの事項に関しては、変化が大きい楽しい事に人は引かれやすいものの、

身体(地・下)の中であまり大きな変化があるのは望ましいことではなく、心の中(天・上)で良い変化があれば身体も良い方向へ行きやすいという事です。

 

 外から見るか、中から見るか、上から見るか、下から見るか同じものでも違うように見えます。結局は同じもの。

言葉を繋ぐ(24)-2

【直訳】

能(よ)くこれを心に説(よろこ)び、能くこれを慮(りょ)に研(みが)き、天下の吉凶を定め、天下の亹亹(びび)を成す者なり。

 

【原文】

能説諸心。能研諸侯之慮。定天下之吉凶。成天下之亹亹者。

 

【私的解釈】
 乾坤の徳によって、自分だけでなく周囲の人も本当の意味で喜ぶことができ、また細やかな計らいを磨くことができる。世の中の良し悪し吉凶を見定めるには、世の中の善悪、流行等に迷わされずに弛まぬ努力をする事である。

 

  人は思いもよらず、世間一般の常識に囚われているものです。

 

  何か形を作るとそれが拠り所になるから。

 

  そこから逸脱すると非常識と言われます。

 

  常識を基準とせずに、常に乾坤の兼ね合いを考えて、言動、行動すればいつの間にか非常識と言われていたものも受け入れられます。

言葉を繋ぐ(24)-1

【直訳】

それ乾は、天下の至健(しけん)なり。徳行恒(つね)に易(い)にしてもって険を知る。それ坤は、天下の至順(しじゅん)なり。徳行恒に簡にしてもって阻を知る。

 

【原文】

夫乾。天下之至健也。德行恆易以知險。夫坤。天下之至順也。德行恆簡以知阻。

 

【私的解釈】
 乾とは天下のこれ以上ない健なかなものである。徳にかなった正しい行ないは、常に優しくすることで厳しさを知ることである。

 

    坤は天下のこれ以上ない順なるものである。徳にかなった正しい行ないは、手軽にすることで端緒を掴ませ、その後にその精妙さを実現することの難しさ、険しさ、厳しさを理解させる事である。

 

 人と共に学んでいく姿勢として、

 

 自我や自尊心が悪いのではなく、自我や自尊心が大きく伸びやかな人はそれを人に優しくする事(坤)に転化できれば、そこから人は厳しさを受け取る事でしょう。受け取れなければ、それはその人の問題で、その時期になかったのか、その方向を向いていないだけです。

 

 優しさや気配りの大きな人は、その性質によって人と仲良くなりやすく、受け入れやすくすることができるので、そこから徐々に難しい事、精妙な事(乾)を実現できるように寄りそって行ければ難しさ、険しさ、厳しさも理解できるようになります。但し、その時期にない人、その方向を向いていない人は、その優しさに浸かり、甘えるだけになるという錯卦もあるので充分に注意する必要があります。

 

言葉を繋ぐ(23)

【直訳】

易の興るや、それ殷の末世、周の盛徳に当るか。文王と紂(ちゅう)との事に当るか。この故にその辞危うし。危(あや)ぶむ者は平らかならしめ、易(あなど)る者は傾かしむ。その道はなはだ大にして、百物廃(すた)れず。懼れてもって終始すれば、その要は咎なし。これを易の道と謂うなり。

 

【原文】

易之興也。其當殷之末世周之盛德邪。當文王與紂之事邪。是故其辞危。危者使平。易者使傾。其道甚大。百物不廢。懼以終始。其要无咎。此之謂易之道也。

 

【私的解釈】
 易が盛んになったのは、そもそも殷の末世であり、陰徳が盛んになった周が中華を支配する時に当たるだろう。また文王と紂王との徳の違いにも当たるだろう。だからその言葉(彖辞)には危険性が伴う。危ういと感じる者は平安にしようとし、侮る者は傾けてしまう。易の道ははなはだ大きく、多くのものは廃れていない。警戒しながら終始すれば、その要は咎はない。これこそが易の道といえるのである。

 

 易の道(陰陽太極)について、殷朝の最後は紂王であり、人々に影ながらその徳を崇められていた周の文王が殷に取って代わった時代です。

 

 また殷の紂王は酒池肉林や蠱毒、炮烙(ほうらく)の刑等の言葉を生んだ事で知られる暴君であり、周の文王は後天八卦を描いたと言われる英雄とも言える人です。

 

 この2つの対比から、様々な事象についての危険や不安、例えば気候が荒れる、

政治情勢が不安定となる、人との付き合いがうまくいかなくなる等を抽象的に表現しています。

 

  このようなバランスの崩れがあるからこそ、それを安定させようと考え、安定している人は不安定な方向へ走りがちだと言っています。

 

 その為、どんな時でも不安定さや危険性を心の片隅に認識しながら、安定する方向へ向かおうとすれば必ず悪い事は起こらない、これが易の法則性の大要だと言っているのだと考えています。

 

 

言葉を繋ぐ(22)

【直訳】

易の書たるや、広大にして悉(ことごと)く備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三才を兼ねてこれを両(ふた)つにす。故に六なり。六とは它(た)にあらず。三才の道なり。道に変動あり、故に爻と曰う。爻に等あり、故に物と曰う。物相い雑(まじ)る、故に文(あや)と曰う。文当らず、故に吉凶生ず。

 

【原文】

易之爲書也。廣大悉備。有天道焉。有人道焉。有地道焉。兼三材而兩之。故六。六者非它也。三材之道也。道有變動。故曰爻。爻有等。故曰物。物相雜。故曰文。文不當。故吉凶生焉。

 

【私的解釈】
 易の書は、広い分野にまで及び細部にまで渡っているので全てが備わっていると言える。天の道も人の道もここに全てがあり、地の道もここに全てがある。三才(天と地と人)を二つ重ね合わせて対をなすものにすることで、六爻になっているのである。六とは他でもない、三才の道である。道には変動があるので爻を作っている。爻には位置という時間の流れによる変化があるのでこれを今起きている現象としている。現象同士が互いにまじり入るので、それを文(模様)と言って言葉にしている。文が当てはまらない場合に、その人の心は吉凶を生じる。

 

 易は全ての法則性を伝える為にあらゆる物事、現象を簡単に纏めている。簡単に纏めているので、もう一度自分の目線で広げて高めていく必要がある。

 

 それができると、天も人も地も同じであることが分かり、それぞれの道も分かる。

更に細かく時間の流れを示す為に爻という概念がある。この爻という概念は、他者の爻や天地の爻とも混じり合うので、それを具体的に言葉にすることで、その人の今の状態、向かっていく方向などを示す事はできるが、その爻をどう考え、どう感じるかはその人次第であり、その人が良いと思えば吉、悪いと思えば凶というだけのこととなる。

 

 素問・上古天真論篇第一には、

 

 男性は八の倍数で身体の変化の目安とし、女性は七の倍数で身体の変化の目安とするという話がありますが、この話の隠れた部分となります。

 

 三才が重なって六爻となり、この六爻を地とし、天は1つなので九とすると、

大きな目線では、六爻(地)、七・八(人)、九(天)となります。

 

 古代東洋では九が最高の数字であるとされた数の理論に従っているという事です。

言葉を繋ぐ(21)-3

【直訳】

噫(ああ)また存亡吉凶を要するは、居ながらにして知るべし。知者その彖辞を観れば、思い半(なか)ばに過ぎん。

 

【原文】

噫亦要存亡吉凶。則居可知矣。知者觀其彖辭。則思過半矣。

 

【私的解釈】
 生死や良し悪しを求めてしまうのは、簡単に、しかも直ぐに知ることができるからである。本来の智恵を使えている人であれば易の彖辞(卦辞)を見ることで、直近の良し悪しよりも、その内容や大きな方向性に思いを馳せるであろう。

 

   結果というものは理解しやすく現状或いは未来を示していると思うのが普通です。しかし、あくまでもそれは人生の中のほんの1部の状況であり、

 

 山沢損から風雷益に変化するように、今悪いと思っている事も将来のハードルを越える為のハードルかもしれないのです。

 

  智恵を生かせれば、 小さな太極に囚われず大きな太極とのバランスに目が行くのではないでしょうか。

 

  たとえ自分の人生で、全てが叶わなくとも誰かが次いで繋げる事ができれば、自分の太極の終わりが誰かの太極の始めになるという考えにも繋がっていきます。

言葉を繋ぐ(21)-2

【直訳】

その初(しょ)は知り難く、その上(じょう)は知り易し。本末なればなり。初は辞もてこれに擬(なぞら)え、卒(おわ)りはこれを成して終る。もしそれ物を雑(まじ)え徳を撰(えら)び、是と非とを弁ぜんとすれば、その中爻にあらざれば備わらず。

 

【原文】

其初雜知。其上易知。本末也。初辭擬之。卒成之終。若夫雜物撰德。辯是與非。則非其中爻不備。

 

【私的解釈】
 そもそも初爻(初め)は分かりにくく、上爻(その卦の終わり)は分かりやすいものである。始めと終わりだからである。初爻は言葉で事の初めを擬えるが、終わりは事が完成して終わるので知りやすい。もしそれが事柄を入りまじえ、徳を選んで集め、是と非を区分けするとすれば、中爻(初爻と上爻の中)がなければ十分ではない。

 

 大成卦を太極として、それぞれの爻の意味を測ると、初爻はその卦の歩き始め、

上爻はその卦が完成する事になるので、上爻は分かりやすく初爻は分かりにくい。

 

 今何かの欲求にかられ、行動、言動をしたとして、その意味を測るのは、その行動、言動(始)によって対象が影響を受け、或いは影響がなく、それを自分がどう思うか(終)まで来て始めて意味(道)が深く理解できる。

 

 これが、望んだ方向へ動くのか、望んでいない方向へ動くのかは、どれだけ陰徳を積んでいるかにもよるが、始めと終わりの間にどのような行動、言動をしているのかによって判断することが大切である。

 

始めと終わり、そして途中経過。

前と中と後ろ。

上焦と中焦と下焦。

仁脈、衝脈、督脈。

 

太極と言う1を3にしています。

 

また、原因と経過と結果も同じ関係性を持っています。

 

病気の根本原因と、伝播していく過程と出ている症状。

 

怪我であっても同じです。