衆妙の門

できるだけ、日常に沿った具体的な易などの運用を記していこうと思っています。

顔を観る①

今となっては昔の事となりますが、

 

東洋医学では、五臓に対応した気と色を、先ずは顔で観ます。

 

元々不器用な上に師を持たない僕は、何をどう見れば良いのか解りませんでした。

 

勿論、東洋医学の基本は学校で習ってましたし、霊樞、難経も読んでいましたが、今一つピンと来ないのです。

 

難経では、神の御業とされるこの望診。

 

神になる積もりは毛頭無かったので、5〜6年前まで、ほったらかしでした笑

 

水野南北の「南北相法」を読むと、黄帝内経・霊樞、難経よりは分かるのですが、実際に使うには自分のものではない気がして、他の参考を求めました。

 

霊樞から解釈し、発展させた「麻衣相法」、「麻衣相法」から「神相全篇」、「相理衝真」と顔を観る為に色々と巡る事で、やっと朧気ながら、気色の大切さ、面白さは分かりました。

 

梯子も、エスカレーターもないけれど根性だけはある、と言う人は全て網羅してみてください。

 

やる気を奮い立たせ、持続させる為には、何らかの階段が必要ですが、その階段は与えられるものよりも自分で作った方がより楽しめます。

 

 

と、言いながら…

 

金澤先生、稻垣先生と出会って、「はよ、出会ってたらもっと楽やったのに!」と思ってますw

 

 

 

 

 

 

形気の組み合わせ②

気が形をつくり、形と言う器の中で特徴を持った気が動きます。


その気には、個々の特徴を元にして、生長壮老死と言う盛衰があります。


この気の流れがどのような形の中で動くのかによって、又大まかに5種類に分類すると、単純に考えても25種類あるわけです。5種類の気と5種類の形。


気から生まれた形の中で、気が動く。


これが陰陽の法則の中で、その人をおおまかに表現する方法の1つです。


これを生長壮老死に分けると、同じ形気であっても更に5つに分かれ、625種類となります。


易で言う、三百八十四爻と同義の状態です。


あらゆるものを8種類の現象で単純化して表現できますので、


形気(2)→形の陰陽と気の陰陽(4)→陽形と陽気、陽形と陰気、陰形と陽気、陰形と陰気をそれぞれ図示すると、


                       陽形と陽気



陰形と陽気                          陽形と陰気



                      陰形と陰気


この間の分けられないところを含めて8種類となります。


形は外から直感的に感じ取るには便利ですが、常に動いているものと同じ速度で観測する事はできません。


   あくまでも、気が動いた過去の軌跡を示しているだけです。


   太陽が動いた(実際には地球が動いていますが)軌跡のように。


   そうすると、あくまでも過去からその人を類推する1つの指標と言うだけですので、


気(現在から未来)

血(直近の過去から直近の未来)

形(過去から現在)


と言う特徴があります。

この1項目から、全てを観測できる人もいますが、鍼灸師としてはできるだけ早く臨床に使って、具(つぶさ)にみたいので、気を見る。


それだけでは、正確性に乏しいので血まで見て、確信、断定して鍼を打つのです。


気は色で観て、血は脈で観る。


上工は神(気)を守り、下工は形を守る。

黄帝内経には書かれていますが、


形を軽んじているわけではありません。


そこで、わざわざ陰陽二十五人という篇が著されているのだと思っています。


誰でもが同じ判断基準を持てるように、

過去、現在、未来を観測できる組み合わせが、形と気よりも気と血の方が的確だと考えていた事を示しているだけです。


徐々に内容が無端如環に近づいてきたので、この辺りの事は、そちらにも書く予定です。




大東流

気を体感した初めての先生が故岡本正剛宗師でした。

 

 大東流合気柔術の中でも、武田惣角、堀川幸道からの系統で、六方会を創始された先生。

 

 初めてお目にかかったのは、30代の頃来阪された折、当時まだ若かった為、ビデオを見てどのくらいの技なのか興味半分で受けました。

 

 正座されている先生が、「両手首を握ってください」と言われ、

 

軽く握ると、「あなたの力はそんなものなのですか?」と挑発され、

 

まんまと挑発に乗って思いっきり握りしめたと同時に畳に叩きつけられていました。

 

その時の素直な感想は「あれ?俺今全力で力入れてなかったわ!」

 

そうして、何度も力一杯握ると同時に天上を見上げる僕に先生は、

 

「何か武道をやっておられましたか?」と一言。

 

その意味も当時は分からずに、又握りに行くと今度は「持ち上げてみてください」

 

岡本先生の180くらいある身体を持ち上げると同時に「ウーッ!!」と呻って倒れる。

 

倒れた僕の足の裏で合気を掛けると、頭のてっぺんまで棒が入ったように硬直し、

 

動けなくなりました。動けなくなりながらもあまりの凄さに笑いが止まりませんw

 

後にある程度この原理は分かりますが、武道では「三年修行が遅れても良い師を探せ」と言われる所以もこの時に分かりました。

 

本物と、本物に似たものでは雲泥の差があります。

 

だからこそ、鍼灸もコツコツと本物に出会うまで続けられたのだと今は思っています。

 

そして、自分も少しずつその奥妙が得られてきていることに楽しさを感じながら。

 

たくさんの伝統を紡ぎ伝えてくれている人に感謝していると、久しぶりに思い出して書き殴ってみました。

 

来阪された折にはよく、「私は練習の後のこれ(日本酒)が楽しみで大東流を続けられたんですよ」と冗談交じりに言う、当時70歳越えた先生に何もできなかった自分を思い出します。

憂う

マイナス思考に陥るのは、肺の範疇ですが、脾から派生しています。

 

本来、心身が伸びやかに生きていられれば、憂う事は少なくなります。

 

そう考えると、欲(心)を過剰に求めて、あれこれ考えた結果(脾)、起こる事が多いのではないでしょうか。

 

心穏やかに、今に満足しながら次のステップに進むかどうかを冷静に判断(脾・胆)できれば、憂う事も少なくなります。

 

元を正せば心の病理。

 

感情は心をどれくらいコントロールできているかの証。

 

憂うと体が前屈みとなり、呼吸が浅くなりがちになることからも肺に関係しています。

 

これが続くと溜息となって発散しますが、裏では肝を圧迫している事にも気をつけなければいけません。

 

 

思う

思索、思考は脾の役割と考えるのが東洋的です。


そう考えると、前頭部痛は陽明胃経の範疇と言われますが、脾が顕在化して胃に浮き出てきたと捉える時もあって良いのではないかと思います。


そして、躁鬱やPTSDと言われる人は前頭部から頭頂部にかけて、虚実が如実に反映されている経験が多く、近年では脳脊髄液減少が見られると言った報告があるのもうなづけます。ここに溜まって動かなくなっている事が多いのかなと。


脳は心の腑と呼ばれていますが、細かく分けると、また違った見方ができるように思います。


恐れは長期間続くと脾に影響し、考えすぎるとマイナス思考(肺)に陥ります。脾が腎を責めすぎて、五行相生が逆に流れている状態です。


怒りが落ちつくと、その事について考える場合(脾が責められ過ぎて、肺の助力によって本来の思考を取り戻した状態)と新たな喜びに向かって行動する場合(肝が心のエネルギーに転換する)がよく見受けられます。


全て、前頭部から頭頂部へ流れが急に上がる場合は、症状も急で激しく、頭頂部から後頭部にかけて停滞している場合は鈍重な感覚が主体として現れているのを観る事が個人的には多いのを考えると、「医心方」で簡単に癲癇をイメージしやすく表現している事が想起されます。


どのような感情であっても、一旦思考する事によって新たな発展をするところは、東洋医学の脾と特性が似ているだけでなく、継続して思考する為に、体幹の中央や前頭部から頭頂部にかけて、気が集中し停滞する為、季肋部中央よりやお腹の真ん中にも停滞が起こるのだと思います。


プラス面では、腎と似ていながら継続して供給できる、変化の種を内包し、


マイナス面では、停滞する事で思考も行動も鈍重になりやすい事です。


考えないのも問題ですが、考えすぎも問題。

今日の悩みや後悔は今日中に捨て、反省として次に活かす事が大切ですね。





喜び

喜びと我欲は表裏一体です。


我欲であっても、周囲と調和していれば、喜びと同じであり、自分の見えない枠を自他共に成長させてくれるエネルギーになります。


反対に私利私欲がなくても、周囲と調和していなければ、その自覚しない不安は怒りやストレスとなって悪循環を起こしてしまいます。


この点について黄帝内経には「その心を心地良くするためばかり努力して、性命そのものを楽しみ、楽にする事を軽んじている」と言っています。(私の解釈では)


つまり、我欲をかきすぎると、今がつまらなくなり、延々と追い求め、最後には心も体も枯れ果てるのに、性命の終息を穏やかにできませんよ。それよりも、今いる環境に満足し、先ずは感謝して、それでもまだ余力が旺盛であれば、それは魂そのものの喜びになります。と言っている気がしてます。


かく言う私自身がこれを全うしようとして、老子が道徳経を書く事になった経緯のように、静かに隠遁しようとしていました。


振り返ると、常に変化するはずの易の道理から外れようとしていたのではないかとすら思います。


心は常に楽しい事や、やり甲斐を求め、時に過剰となれば思考して(脾)振り返ったり、心が弱ると心配から恐れ(腎)へと変化しますが、それも又楽しみながら生きていくのが、易に則った人生かなと思ってます。


心は君主として、鎮座するものですが、いつも動いているからこそ、安らかにする事が大切だと感じ、動いていない人は積極的に動かさなければ動かなくなってしまうのでしょう。


ここでもやはりバランスが大切ですね。





恐れ

恐れと驚きは腎との相互影響の深い感情です。


外に現れ始めるのは、怒りや不満ですが、その前に恐れや驚きがある事は前項で書きました。


気の有様を考えてみると、恐れは心が縮んでいる姿、驚きは恐れほど縮みはしませんが、瞬間的にギュッと凝縮される姿です。


これを次への心のプラスと捉えれば、笑いや喜びと言う、良い変化に転換できますが、他への攻撃に転換してしまうと怒りになります。


つまり、この気の凝縮をどうするかは自分次第。


腎は隠す、溜め込むと言う外にジャンプの為の蓄えと考えると、新しく良い変化を導く事が出来るのではないでしょうか。