大東流
気を体感した初めての先生が故岡本正剛宗師でした。
大東流合気柔術の中でも、武田惣角、堀川幸道からの系統で、六方会を創始された先生。
初めてお目にかかったのは、30代の頃来阪された折、当時まだ若かった為、ビデオを見てどのくらいの技なのか興味半分で受けました。
正座されている先生が、「両手首を握ってください」と言われ、
軽く握ると、「あなたの力はそんなものなのですか?」と挑発され、
まんまと挑発に乗って思いっきり握りしめたと同時に畳に叩きつけられていました。
その時の素直な感想は「あれ?俺今全力で力入れてなかったわ!」
そうして、何度も力一杯握ると同時に天上を見上げる僕に先生は、
「何か武道をやっておられましたか?」と一言。
その意味も当時は分からずに、又握りに行くと今度は「持ち上げてみてください」
岡本先生の180くらいある身体を持ち上げると同時に「ウーッ!!」と呻って倒れる。
倒れた僕の足の裏で合気を掛けると、頭のてっぺんまで棒が入ったように硬直し、
動けなくなりました。動けなくなりながらもあまりの凄さに笑いが止まりませんw
後にある程度この原理は分かりますが、武道では「三年修行が遅れても良い師を探せ」と言われる所以もこの時に分かりました。
本物と、本物に似たものでは雲泥の差があります。
だからこそ、鍼灸もコツコツと本物に出会うまで続けられたのだと今は思っています。
そして、自分も少しずつその奥妙が得られてきていることに楽しさを感じながら。
たくさんの伝統を紡ぎ伝えてくれている人に感謝していると、久しぶりに思い出して書き殴ってみました。
来阪された折にはよく、「私は練習の後のこれ(日本酒)が楽しみで大東流を続けられたんですよ」と冗談交じりに言う、当時70歳越えた先生に何もできなかった自分を思い出します。
思う
思索、思考は脾の役割と考えるのが東洋的です。
そう考えると、前頭部痛は陽明胃経の範疇と言われますが、脾が顕在化して胃に浮き出てきたと捉える時もあって良いのではないかと思います。
そして、躁鬱やPTSDと言われる人は前頭部から頭頂部にかけて、虚実が如実に反映されている経験が多く、近年では脳脊髄液減少が見られると言った報告があるのもうなづけます。ここに溜まって動かなくなっている事が多いのかなと。
脳は心の腑と呼ばれていますが、細かく分けると、また違った見方ができるように思います。
恐れは長期間続くと脾に影響し、考えすぎるとマイナス思考(肺)に陥ります。脾が腎を責めすぎて、五行相生が逆に流れている状態です。
怒りが落ちつくと、その事について考える場合(脾が責められ過ぎて、肺の助力によって本来の思考を取り戻した状態)と新たな喜びに向かって行動する場合(肝が心のエネルギーに転換する)がよく見受けられます。
全て、前頭部から頭頂部へ流れが急に上がる場合は、症状も急で激しく、頭頂部から後頭部にかけて停滞している場合は鈍重な感覚が主体として現れているのを観る事が個人的には多いのを考えると、「医心方」で簡単に癲癇をイメージしやすく表現している事が想起されます。
どのような感情であっても、一旦思考する事によって新たな発展をするところは、東洋医学の脾と特性が似ているだけでなく、継続して思考する為に、体幹の中央や前頭部から頭頂部にかけて、気が集中し停滞する為、季肋部中央よりやお腹の真ん中にも停滞が起こるのだと思います。
プラス面では、腎と似ていながら継続して供給できる、変化の種を内包し、
マイナス面では、停滞する事で思考も行動も鈍重になりやすい事です。
考えないのも問題ですが、考えすぎも問題。
今日の悩みや後悔は今日中に捨て、反省として次に活かす事が大切ですね。
喜び
喜びと我欲は表裏一体です。
我欲であっても、周囲と調和していれば、喜びと同じであり、自分の見えない枠を自他共に成長させてくれるエネルギーになります。
反対に私利私欲がなくても、周囲と調和していなければ、その自覚しない不安は怒りやストレスとなって悪循環を起こしてしまいます。
この点について黄帝内経には「その心を心地良くするためばかり努力して、性命そのものを楽しみ、楽にする事を軽んじている」と言っています。(私の解釈では)
つまり、我欲をかきすぎると、今がつまらなくなり、延々と追い求め、最後には心も体も枯れ果てるのに、性命の終息を穏やかにできませんよ。それよりも、今いる環境に満足し、先ずは感謝して、それでもまだ余力が旺盛であれば、それは魂そのものの喜びになります。と言っている気がしてます。
かく言う私自身がこれを全うしようとして、老子が道徳経を書く事になった経緯のように、静かに隠遁しようとしていました。
振り返ると、常に変化するはずの易の道理から外れようとしていたのではないかとすら思います。
心は常に楽しい事や、やり甲斐を求め、時に過剰となれば思考して(脾)振り返ったり、心が弱ると心配から恐れ(腎)へと変化しますが、それも又楽しみながら生きていくのが、易に則った人生かなと思ってます。
心は君主として、鎮座するものですが、いつも動いているからこそ、安らかにする事が大切だと感じ、動いていない人は積極的に動かさなければ動かなくなってしまうのでしょう。
ここでもやはりバランスが大切ですね。
恐れ
恐れと驚きは腎との相互影響の深い感情です。
外に現れ始めるのは、怒りや不満ですが、その前に恐れや驚きがある事は前項で書きました。
気の有様を考えてみると、恐れは心が縮んでいる姿、驚きは恐れほど縮みはしませんが、瞬間的にギュッと凝縮される姿です。
これを次への心のプラスと捉えれば、笑いや喜びと言う、良い変化に転換できますが、他への攻撃に転換してしまうと怒りになります。
つまり、この気の凝縮をどうするかは自分次第。
腎は隠す、溜め込むと言う外にジャンプの為の蓄えと考えると、新しく良い変化を導く事が出来るのではないでしょうか。
怒り
怒りは東洋医学では、肝の作用と考えます。
肝は腎によって支えられ、肝の将軍としての陣頭指揮をいかんなく発揮しています。
僕はこれを考える度に、
この人は何に怯えているのだろう?
と感じます。
肝は季節で言うと春、始めの時期と考えますが、樹木が芽を出す為には、種が必要です。
成長に必要な栄養が貯まった状態でなければ芽を出せません。
黄帝内経・素問では、天地の交わりは冬から語られる事が多く、冬があっての春の始まりがあると考えて書かれていると思っています。
感情では怒りが肝であり、春であるので、その背景に腎であり、冬である恐れや驚きが潜んでいます。
たまに、その人の成長を促すための怒りもありますが、それも来るはずの春が来ないことによる不安と恐れ(心と腎)の争いの結果です。
また、恐れが全くなければ自我が周囲にまで影響するほど、伸びている状態です。
先日、2つの新芽が隣り合って伸びていて、可愛い♩と言っていたと言う話を聞きました。その後、1つの新芽が成長が早く、もう1つの新芽に絡みつくと、仲が良いね♩と更に喜んでいたそうですが、実は成長が早かった方が太陽の陽射しを独り占めしようとした姿であり、もう1つの芽は腐って枯れてしまい、それを見ていた人はもう何も言わなかったと聞きました。
伸びた新芽にとっては、伸びやかな自我の発揚が、遅かった方にとっては生死を分ける結果となっています。
何事も、後々喜び(心の栄養であり、肝から心への繋がり)になるように上手く将軍を使える君主(心)を養っていきたいものですね♩
自戒を込めて…
形気の組み合わせ①
形の陰陽で書いて来た5種類は、あくまでも人をデジタルに分類したものですので、実際には更に様々な形があります。
たくさん書くとピッタリ当てはまる人が多くなる反面、内容が難しくなる為、周易の規則に則って、水と火が交わり、その中に木・金・土と言う形があると考えると、
1つの気が水火に分かれ(2)、木・金・土に発展し(3)、全部で5種類のバリエーションとしています。
ここに、気色と声がバランスよく配置されればその人は活き活きと過ごせる可能性が高くなります。
例えば、木の形を持つ人が火の気を出すと勢い良く燃え、天高く炎が上がりますが、すぐに燃料が枯渇しやすいと言う欠点があります。(木生火→火尅金→金尅木)
金の気を出すとすぐ物足りなさを感じるかストレスが溜まりやすいのです。(金尅木)
気色で言うと、若干の赤みか青みがある時が一番調子が良く、赤みが出ると行き過ぎ、白みが出ると抑えすぎか溜め込みすぎを示しています。
音で言うと、ガラガラ声は気を出しすぎ、高すぎる声で響くものは抑えていますが物足りなさを感じます。
他の形もそれぞれ良い気色と声がありますが、
一番簡単な判断としては屈託のない笑顔が出せるかですね♩